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センスの正体

最近、「センスいいよなあ」と思う友人たちとお仕事をする機会が多く、そもそも《センスが良い》とはどういうことなのか? と考えた結果、めちゃくちゃシンプルな結論が出たのでシェアしたい。

ここで冒頭からいきなり結論めいた書き方をするけれど、
センスとはバランスだ。

つまりセンスがいいということは
バランスがいいということ。

センスがいい人は往々にして、ある特定のクラスターや、グループや、コミュニティのみに生きることに満足しない。常にその偏りを意識する性質を持ち、壁がなくジャンルをすぐ飛び越えられる人ばかりだなと思う。

ノリタケのシンプルな白磁器が並ぶ食卓に、華美な九谷焼の器をサッと添えて去っていくような強靭な美しさを持つ、センスある友人たちは、きっとそこに足りないものを感じる能力に長けているんだろう。

とにかくいつもアメカジ! いつも和装! いつだってハイブランド! って人に、センスを感じにくいのは、守り固められたその世界にバランスが不要だからだ。もちろんそれがわるいという話ではない。

人生を豊かにする推し的感情は携えていながらも、一方でその偏愛性を認識してしまうその性質ゆえ、センスのいい人はとにかく、大抵おおらか。「正解」とか「正義」を持ち合わせていないのも特徴だと思う。

ひとそれぞれ嗜好は多様で、真にダイバーシティであることを当たり前に認識しているからこそ、常に俯瞰的な目線をもってモノを選ぶ。つまり、その視線の先にあるのは、そのモノ自体ではなく、そのモノが存在する世界だ。

そしてこのセンスという名のバランス感覚を、常に意識できるかどうか? を問われるのが、僕たち編集者の仕事だなあとも、あらためて思う。

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二週間くらい前だろうか、家の近くで開かれていた、とある「ヴィーガンマルシェ」に行った。《エシカル》《エコロジー》《アニマルライツ》
それらの言葉とメッセージに共感するにもかかわらず、なんだかとてもしんどい気持ちになって帰ってきた。

それはきっと僕が編集者だからかもしれないなと思ったのだ。

目の前で展開される大切なメッセージとどこか矛盾する、本質的な多様性や混沌がそこにないことが気になって仕方がなかった。駅前の公園という開かれた場所とは裏腹に、明らかにその会場は特定のコミュニティに支配されてしまっていて、その街で暮らす人たちを静かに遠ざけていた。

それを左右するものこそがセンス、つまりバランスなんじゃないだろうか。

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僕の活動の旗印はずっと「Re:Standard=あたらしい“ふつう”を提案する」だ。20年近く、そう言い続けてきたけれど、この前提には「ふつう」というものがいかに多様であるか? という問いが根っこにある。

「マクドナルドのポテトなんて体に良くないから食べない方がいい」そう一刀両断するのも良いけれど、僕は「あんな美味しいものついつい食べすぎちゃうよね」なんて言いながら、でもだからこそヴィーガンハンバーガーの美味しさを味わいたいと思う。それを上辺だけのファッションだとか、パフォーマンスと取る人もいるかもしれないけれど、それでも僕は、ファストフードとヴィーガンの間で揺れるリアルによっぽど向き合っている自負がある。

この世界の多くは明確な白黒ではなく、グラデーションだ。

物事を知ることで、解像度が上がる。なんて言葉をよく聞くようになったけれど、解像度が上がるというのは、見えなかったものが見えるというより、グラデーションがより滑らかになるということ。

冒頭で僕は「センスとはバランスだ」と書いたけれど、僕が今回伝えたいことの本意は、センスが良い人とは、モノと人との間にあるグラデーションを滑らかにする人。もしくはそのグラデーションそのものになれる人だ。

紅葉を美しいと感じるとき、僕たちは赤や黄色のビビッドさに感動するだけではなく、黄色から赤へ変化するグラデーションの多様なカラフルに心動かされている。日没直後、マジックアワーの空の美しさに言葉を無くすように、僕たちはいつだって自然で滑らかなグラデーションに心惹かれる。

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