見出し画像

不機嫌という空気をもって、制しない。

「空気読めよー」この言葉は、お笑いの世界における革命だった。
そこから視聴者は、お笑いというのはチームプレイなんだと気づき。後の、ひな壇芸人と言われる存在や、「ガヤ」「まわし」さらには「裏まわし」なんて言葉まで視聴者が理解できるようになったんだと思う。しかしこの「空気を読め」という圧は、楽しかったお笑いの範疇をこえて、いや、もっともっと根深く日本人のなかに蓄積されてきた和を尊ぶ精神、つまりは調和が正義であるという共通認識をより強くした。その結果が「忖度」だ。

そもそもこの「和を尊ぶ」という言葉は、聖徳太子の十七条憲法の冒頭にある「和を以て貴しとなす」という言葉からきていると思うのだけれど、あの言葉は「みんなで仲良く角を立てずにやろうね」と言ってるわけではない。

以下、第一条の原文を引用。

一曰。以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨亦少達者、是以、或不順君父乍違于隣里。然、上和下睦諧於論事則事理自通、何事不成。

つまりこの冒頭にある「以和爲貴」の4文字だけを抜き出したものが広まった。

この原文を見たままの印象で僕なりに訳すと

以和爲貴、
和はとても大切、
無忤爲宗。
むやみに争わないで。
人皆有黨亦少達者、
人は皆、ダメなところがある。悟り切った人間なんて少ないものだよ。
是以、或不順君父乍違于隣里。
だから、親子や職場や地域など、いろいろいざこざはあるよね。
然、上和下睦諧於論事則事理自通、
だけど、上下関係とか立場の違いを超えて、きちんと意見を言い合えば、
何事不成。
何事も成し遂げられないことなんてないよ。


つまりは「対話していこう」ってことなんだとわかる。

ていうか、久しぶりにこんな古文とにらめっこしたけど、まさにこういう対話も楽しいもんだ。


そう考えると、いかに時の権力者が意図的に「以和爲貴」だけを抜き出し、大衆に広めんとしたかという編集意図が見えてきた。

ちなみに、もし僕が当時の編集者として、この聖徳太子の言葉は素晴らしい! と世の中に広めようとするならば、

上和下睦諧於論事則事理自通、何事不成。

ここを抜き出す。これが長いというのなら、

上和下睦
(上和らぎ下睦び)
上からも下からも歩み寄ること大事だよね。

の四文字でもいい。これらをもってこそ初めて

以和爲貴、
和はとても大切。空気読んでこ! って言える。


互いの違いや差異に蓋をして強引に価値観を同じくする必要なんてない。というか不可能だ。そうではなく、それぞれの価値観をまずは知ること、認めること。その上で対話することこそが大切。

なので僕はこの和を尊ぶ精神というのを、そろそろ、あたらしくバージョンアップさせた方がいいと思う。

「和を尊ぶ」ではなく
「対話を尊ぶ」精神に。

いわば、
以話爲貴だ。

この方がよっぽど人間として大切にすべきことじゃないだろうか。てか、そもそも、そういうことを十七条憲法は言ってる。


忖度なんて世の中になくてよかったはずの言葉を流行語になるまでにした安倍政権や、コロナ禍の緊急事態においてなお、空気を持って制しようとする菅政権。彼らのようなおじいさんたちにとって「以和爲貴」「和を貴しとす」「和を尊ぶ」「和が大切」という言葉はなんと都合の良い言葉だろう。菅さんなんて、幹事長時代からずっと「おい、だから空気よめよ」という顔しかしてない。

しかし、それは空気をつくれたからこその言葉だ。もはや、空気は僕たちがつくれる。デモを馬鹿にする人がいるけれど、ああいう行動一つ一つが空気をつくっていくのだ。これまでのように、政治家などの権力者がパワーセールス的に空気をつくることがやりづらくなってきている。戦後の日本の空気を作り続けてきた電通のような広告代理店さえも世の中の変化に抗えなくなってきている。

究極のローカルメディアは自分自身。と僕は自著の冒頭で書いた。それはメディアというものを自分でコントロールできるものに引き寄せるためだ。一人一人の発信が空気を変えたりすることができる時代。インターネットのチカラは大きい。

そしてそんないまとても大切なこと。
それは出来るだけ、ごきげんでいることだ。

気に入らないこと。つらいこと。悔しいこと。いろいろあるけれど、それを乗り越え、変化させるのは、対話しかない。
対話するためには「ごきげん」でいることが条件だ。

「不機嫌」は無言の圧。つまりは「空気を読んでくれ」という一方的な他者依存だ。どんなときでも「機嫌良く」あることが、対話をうむ。

ここから先は

627字
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?