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おれのことなら放っておいてくれ

 某誌で「ローカルの行きつけ」をテーマにした原稿を頼まれて、「行きつけ」というものについて初めて真剣に考えた。そもそもそんなオファーが来ること自体、僕がずいぶんおじさんになったからに違いない。じきに50歳になる僕は、確かに「行きつけ」と呼んでもいいようなお店がポツポツと増えてきた。でも僕は自分から「行きつけ」という言葉を口にしたことがない、それはなぜだろうか。自分なりの考察を原稿にして入稿した。なのでそれについてはここでは書かない。

 今回は、行きつけと聞いたときに思い出す、ある人物について書いてみたいと思う。

 そもそも「行きつけ」ができるということは、冒頭に書いたように、歳を重ねて落ち着いてきちゃってるというか、安牌を選んでるというか、チャレンジしなくなってるというか……つまりは、まあ「老い」に向けての第一歩的なところがあるから、まだもう少しばかり抵抗したい気持ちが残っているのだけど、それでも「行きつけ」そのものについては肯定したいというか、なんだか憧れのようなものを仄かに持ち続けているのは、あのおじさんの影響かもなあと思う。

 県職員ながら、関西のクリエイティブ界隈では有名なIさん。昨年だったか、すでに役職定年をむかえたIさんから「余計な会議と仕事から解放されて身軽になりました」と連絡がきたから、いまごろきっと羽を伸ばして、一層飲みに励んでいるに違いない。とにかく僕が「行きつけ」と聞いて真っ先に思い出したのはこのIさんだった。

 Iさんは長年、ある県立図書館でさまざまなイベントを企画編集されてきた。その企画のいくつかに僕もお声掛けいただいたのだが、たまに僕から持ちかけた企画をカタチにしてくれることもあり、僕にとっては、思いつきの提案を真摯に受け止めてくれる数少ない大人の一人。だから、僕は事あるごとにIさんに相談を持ちかけた。その場所はいつだって居酒屋だ。

 実際、幾つかのイベントを実現させてもらったけれど、なかでも強く印象に残っているのは、俳優の佐野史郎さんや、小説家の柴崎友香さんら写真好きのメンバーと一緒に活動している「りす社友会」の写真展。展示のほか、トークイベントも盛況で、気心知れた仲間とのイベントということもあって、とても楽しい思い出となっている。しかしそんな幸福な記憶の隅っこに、こびりつくようにある悦びの欠片が、その打ち上げ。

 イベントの本番は打ち上げだ。なんてことを冗談めかして言う人もいるが、ことIさんとのイベントにおいてはそれは冗談でもなんでもなくて、本気で僕は打ち上げにおけるIさんの振る舞いや言動の体感をこそ本番と照準を合わせていたようにすら思う。

 基本的にIさんは誰に対しても忖度しない人で、妙なおべっかを使うこともないし、その場を盛り上げようとするような発言など一ミリもしない。当然、場を取り仕切ろうともしない。それでも準備にはしっかり奔走してくれて、打ち上げがはじまってしまえば、端で佇むように飲んでいる。それでいて独特の存在感を漂わせるIさんはやっぱり只者じゃなくて、自然と誰かがIさんにその日の感想を求めにいく。Iさんは決まって「僕の意見なんてどうでもいいんですよ」と前置きして、的を射た意見をさらりと言ってのけて、再び飲み始める。少しずつ少しずつ日も落ちて、それとともにIさんは、しっかりと着実に、酒に飲まれていく。

 Iさんの首が赤子のように安定しくなってきたら、次の店の合図だ。最初こそ端っこで佇むように飲んでいたIさんを先頭に、夜の町に再び繰り出す。どこに案内されようが、すでに20年以上通い続けている店ばかり。そんなIさんの行きつけにお邪魔するのが僕は大好きだ。大抵の店が閉店の準備をすすめる街で、街灯の光を向こうにその輪郭を濃く描くIさんの背中と夜の街こそが、僕にとっての行きつけのイメージだ。こういうおじさんに僕もなりたい。そんなふうに思っていた。

 3〜4軒目のバーにいる頃には、絶妙な調子でクダを巻きはじめるんだけれど、それでもどこか上品さが抜けないのはIさんの育ちのせいなのか。そういえば幼少の頃のお話は聞いたことがないけれど、Iさんは役所に務める以前、学校の先生だったという話はよく聞いているから、どこかでいまだに生徒の目を感じたりするのかもしれない。

 ちなみに、Iさんが酔った時の口癖は「僕のことなんか放っといてくれたらいいから」。

 言葉だけを聞くとずいぶんぶっきらぼうに思えるかもしれないけれど、なんというかIさんのそれは、言葉にすると、節度とか、身の丈とか、作法とか、美意識とか、そういったもので。僕はこの愛しい「放っといてくれ」を聞きたくて、延々とIさんに付き合う。いや、付き合ってもらっているのかもしれない。だから僕はIさんと飲むときは、こっそり近くの宿を押さえてから行く。Iさんと飲んでその日中に家に帰れたためしがないからだ。だから僕はいつだって帰り時間を気にすることなく一緒に飲む。それどころか、翌日も出来るだけフリーな日を選んだり、調整したりしているので、まさに準備万端、本番以外のなにものでもない。

 深夜2時を過ぎた頃、Iさんの「放っておいてくれ」は言葉を超えて、佇まいに変化する。これがいいのだ。そして僕はそんなIさんをカウンターのむこうから程よく相手するマスターにもまた惚れ惚れする。冒頭で書いた某誌の原稿においても、肝になっているのだけれど、行きつけというのは「距離感」が大事で、つまりは「放っておいてくれる」ことが大事なのだ。ぼくは「常連」というのがあまり好きじゃない。いくら大好きなお店でも「常連」っていうのにだけはなるまいぞと常々思っていて、僕は毎朝通っているパン屋カフェでも、スタッフの人と親しく話したりはしない。夏場、黙っていてもマイタンブラーに、アイスコーヒーじゃなく、ホットコーヒーを淹れてくれるくらい、認識はしてくれているけれど、それでも交わすのは「ありがとう」の一言だけだ。ぼくはこの距離感をつめたくないしつめられたくない。

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