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感じなくてもいい不安
僕たちは少しばかりいろんなことに恐怖を覚えすぎていないだろうか。
ふと、そんなことを思ったのは、またしても南海トラフという言葉をX(旧Twitter)のトレンドで目にしたからだ。
予測できる事態に対して、きちんと対策を練ったり、行動することは大事だけれど、ここで大事なのはあくまでも防災意識であって、南海トラフそのものではないように思う。けれど、僕たちはまだ見ぬ「南海トラフ」というものへの恐怖に、地震や自然災害そのものの恐怖を都合よくすり替えていないだろうかと思った。
そもそも、資本主義社会というOSで人間社会がここまで成長発展してきたのは、資本というものが、経済資本であれ、人的資本であれ、人間の持つ『安心』への欲望に触れてくるからだ。
1999年4月20日、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で起こった少年2人組による銃乱射事件を題材にした、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』
2003年、小さな劇場でその上映を観た僕は、銃乱射事件の少年たちが聴いていたことで、まるでその原因であるかのように汚名を着せられたロックミュージシャンのマリリン・マンソンのインタビュー部分に、大きな衝撃を受けた。
彼は、アメリカ社会の根本にある、恐怖や強迫観念に基づく経済についてとてもクレバーに指摘していて、恐怖感を与える自身のそのビジュアルをよそに、もはや「お前が言うな」などという関西人的なツッコミが浮かびもしないほどクールな正論を放っていて、20代だった僕は、彼の言葉にとにかく大きな感銘を受けた。
マリリン・マンソンは自分が標的になることの社会的な都合の良さや便利さの指摘とともに、アメリカ社会における不安や恐れについて、こんな風に語っていた。
「そんなニキビ面だとモテないよ」「口臭がひどくない?」その不安を取りたければ、このクリームを買って。そんな風に不安を与えることで消費行動を促して、アメリカの経済は成り立っている、と。
これはアメリカの属国である日本もまったく同じだと思った。
僕たちは生きている限り、常に恐怖を感じている。それが決して命を脅かすようなものでなかったとしても、僕たちは小さな恐怖というストレスを蓄積させながら生きている。
インボイスのような悪法がまかりとおることも恐怖だし、大阪万博のような時代にフィットしない空虚なイベントがガンガン突き進んでいくことも恐怖だし、スマホの機種が古くなって新しい機能に置いていかれそうになることも恐怖だし、X(旧Twitter)で変なことをつぶやけば炎上するんじゃないかというのも恐怖だし、いまの発言はジェンダー的に不適切だったと叩かれることも恐怖だし、僕たちのまわりは、目に見えずとも存在する菌のように、無数の恐怖と不安で溢れている。
そんな恐怖を低減したり消したりするための商品やサービスは数あれど、そこで僕たちが気にしなきゃいけないのは、マリリン・マンソンの20年前の指摘のように、目の前の商品が、あわせて、不安や恐れの開発からスタートしてはいまいか、ということ。
気にしなくてもいい雑菌をわざわざビジュアル化して、除菌性能の高い商品の購買を促すCM。多様化する世の中に矛盾した「そんなことも知らないの?」マウントを楽しげに展開するバラエティ番組。持ってないことで無駄に熱中症への恐怖を感じてしまうクールリングやハンディファン。そんなことのすべてが、僕たちの「安心感」をくすぐるから厄介だ。
僕たちは少しばかり色んなことに恐怖を覚えすぎなんじゃないだろうか。
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