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取り戻す旅⑩ 『取り戻したもの』編

 「長かった旅も終わりか」。などと感慨深く思うのは、旅を振り返っている今現在の感情だろうか。3泊4日なんて、いわばあっという間だ。けれどこうやって、旅の終わりの項までに45,000字以上費やしているのだから、それは確かに長かったのだ。僕は常々「アウトプットしてこそ、旅」と言い続けている。目に映るものすべてが彩りを持って飛び込んでくる旅の日々は、いわばインプットの過剰摂取状態。それらをアウトプットで消化していくことで初めて僕の旅は終わる。だからいよいよこの旅も終わりを迎える。

 こんなふうにアウトプット癖がついているせいで、年中、旅をしているように思われるのか「月のうちどれくらい家にいるんですか」と聞かれることが多い。その度に「半分以上は地元にいるよ」と答えるのだけれど嘘じゃない。僕は、インプットとアウトプット、つまり「旅をした時間」と「地元で生活をする時間」が、最低でも同時間必要だ。旅はいつだって刺激的で楽しいけれど、それをもって人生が豊かになるのではなく、それを反芻する時間こそが、日々を豊かにしてくれる。

 チェックアウトを済ませホテルを出たら、辺り一面の雪。青森といい盛岡といい、少々歓迎が過ぎる。だけど、未踏の雪にスーツケースの轍をつけていくのは、なんだか誇らしいような気分にもなる。そもそも僕に冒険家的精神はないし、それどころか、都会の生活に慣れてしまった小心で軟弱な人間だと自覚するけれど、後ろを辿る人に歩きやすい道をつくっておきたいという願いくらいは持ち合わせている。降り積もる雪に足跡を残すくらいのはかない精神が、案外僕のアウトプットの支えなのかもしれない。

 盛岡駅にあるドトールに入って、旅の写真を整理する。雰囲気の良い喫茶店を見つけて地元新聞を読みつつモーニングをいただくのが好きではあるが、旅のさまざまを吐き出していくにはドトールくらいがちょうどいい。甲子園のある兵庫県西宮市に住みつつも、黄色と黒の組み合わせに、阪神タイガースではなくドトールを思い出す僕は、旅先のバリューカードコレクションが増えていくのを楽しんでいたりもする。同じようなものにスターバックスの都道府県メダルというのもあって、旅人心をくすぐるのだ。

 僕は基本的に海外には行かないけれど、いわばパスポートの出国スタンプみたいなものだろう。人は、自分が行動した証、この世に生きた証を残しておきたいと願う生き物だ。僕が人生で最も頻繁に盛岡に訪れていたのは、東日本大震災直後の2011年〜2013年頃だった。津波に飲まれて泥だらけになった写真を、一枚一枚洗浄するボランティアが各地で行われており、その現場を写真家の浅田政志くんと一緒に取材してまわっていた。その際、盛岡や一関を拠点に、沿岸部まで車を走らせることが何度もあった。写真洗浄が進み、それらを持ち主に届けるフェーズへと移りはじめた頃、返却会と称された洗浄済み写真の展示会場で、自分が小さかった頃の写真を見つけた男性はこんな言葉を放っていた。

 あっ、俺だ。俺だ。これ、俺、俺。これ、俺。ああ、良かったー。ああ、俺だ、俺。ああ、良かったー。何気に見たら、ほら、ここにうちのオヤジが写ってて。これ誰かな。誰かのアルバムの1コマだなぁなんて思ってて。裏見たら、これ俺のじいさんなんですよ。これ、俺なの。これがじいちゃん。じいちゃんが出てきた。ははは。良かったよ。こんなこともあるね。やっぱり来て良かった。皆さんに感謝、感謝ですな。ほんと詰まるところ写真だよね。お金とか印鑑とか通帳とか現実的なことは表面では言うけどね。「写真一枚、出てこないかなぁ」って皆言うもんな。なんにもないからね。なんにもなくしちゃったからね。

『アルバムのチカラ』(赤々舎)

 2011年、東北沿岸部各地の体育館に集められた大量の写真たち。しかしそこに、近年の写真はほぼなかった。つまり、デジカメやスマホでの撮影が当たり前になったことで、多くの人たちが、写真をプリントしたり、アルバムをつくることをしなくなってしまっていたことが明らかになった。震災直後、懸命な捜索活動を続ける自衛隊のみなさんは、SDカードやパソコンは踏んでも、写真を踏むことはできなかったという。フォトアルバムや写真フレームを見つける度に、道の端に寄せ、やがてそれらが体育館などに集積されていく。大量に集められた思い出たちを前に、このまま劣化させてはいけないと、同時多発的に、写真洗浄の取り組みがはじまっていった。おかげで、生きてきた証を取り戻した人たちが多くいる。データではなく、モノとして在ることの価値は計り知れない。

 もしも僕が災害にあって、何もかもがなくなってしまったとしたら、このnoteの原稿は残っているだろうか。たとえそれが残っていたとしても、パスワードや個人情報の問題などで、それを他人が閲覧することは不可能かもしれない。だから僕はこの旅の記録を本にしようと思う。本という手に触れられるモノにして残したい。僕が編集者として紙にこだわるのは、データではなく、泥だらけのアルバムや写真プリントが、持ち主のもとに返っていく姿を何度も目にしたからだ。

 ノートPCにむかって黙々と作業をしていたら、あっという間にお昼。伊丹空港行きの飛行機は15時台だが、盛岡駅から花巻空港までは、バスで45分かかる。最低でも14時発のバスに乗車しなければいけない。あまり時間に余裕があるわけではなかった。ちなみに花巻空港はちょっとしたトラップがあるので、後進のための轍を残しておくと、空港に行きたいからとJRの花巻空港駅に行ってはいけない。JR盛岡駅から花巻空港駅までは、各駅列車で35分くらいなので、交通渋滞などの心配が少ない電車のほうが確実だと、JRの花巻空港駅まで向かおうとする気持ちはとてもよくわかる。けれど駅に到着するなり、きっと大きく後悔することになる。JR花巻空港駅から花巻空港までは、なんと徒歩50分もあるのだ。なにゆえ花巻空港駅と名乗るのか。地元の人たちにとっては当たり前の事実も、初めて訪れる旅人にとっては戸惑いしかない。旅人にとって乗り継ぎダイヤは旅の骨組。そこに対する不安は、ある意味で一番大きなストレスになってしまう。一応、花巻空港駅から花巻空港行きのバスはあるものの、搭乗時間にうまく合うかもわからないし、そもそもそれならば盛岡からバスに乗ってきたのに、と考えてしまう。きっと、これまでもたくさん疑問の声が届いているに違いないけれど、変化する気配がないのは、そこに僕たちの戸惑いや不安を超えるほど、守るべき大切な何かがあるからだろうか。

 さて、残された盛岡滞在をどう過ごすか、考えを整理するためにも、まずはお昼ご飯を食べることにした。なんだか今日の気分的には、盛岡冷麺が外せない。雪降るなかでよく冷麺など食べるものだと思うかもしれないが、盛岡冷麺は、町中華の「冷麺はじめました」というアレではない。街中の焼肉屋で年中いただける冷麺で、いわゆる韓国冷麺に近いが、盛岡の場合は、麺にそば粉が入っていないため、より透明感があって美しい。もちもちの食感に、つるつるの喉越しは、まさに涼をいただく感じではあるものの、あたたかい焼肉屋のなかでいただく冷麺の風情が僕は大好きなのだ。そこで思い出すのは、福井県の名物の水羊羹。A4のコピー用紙でも入っているのかと思うような、高さ2cmほどしかない平らな箱に入っており、予め入った切れ目にヘラを当て、羊羹をすくい出して食べるのだが、あれもまた、あたたかい炬燵に入って食べるのがスタンダード。ぬくぬくとした環境で涼をとるなど、贅の極みと、自らの軟弱さを憂いながら、炬燵で食す水羊羹のごとく、熱い鉄板に囲まれて一人、冷麺を食べる。刹那な幸福に浸りながら、噛みきれぬほどにコシの強いでんぷん麺を噛んで噛んで噛む。

 ちなみに、盛岡冷麺のお店でもっとも好きなのは「髭」という焼肉店なのだが、そこは車がないと行きづらい。ましてや、今日のように時間に余裕がない時はなおさらだ。そこで向かったのは盛岡駅前の「盛楼閣せいろうかく」だった。個人的には「髭」の次に好きな店だが、二番手とするのがはばかられるくらいに好き。「盛楼閣」を最初に教えてくれたのは、いまは閉店してしまった「carta」という喫茶店の店主、加賀谷さんだった。加賀谷さんに教わって以降、10年間ずっと僕は、キムチを冷麺に乗せずに提供してもらう「辛み別」を選ぶ。乳酸発酵感じるピリピリ酸っぱいキムチは、辛さというよりは、甘みが強く、少量入れるだけでも大きく味が変わるので、少しずつ少しずつが鉄則。加賀谷さんご夫妻は、元気にされてるだろうか。なんだか無性にcartaのコーヒーが飲みたくなる。

 バスの時間まではまだ少しある。スーツケースを駅前のロッカーに預けて、昨年、秋田市から移転した、知人が営むTシャツ屋「6JUMBOPINS」まで歩いていくことにした。北上川沿いの飲食街「木伏きっぷし」を横目に今朝もまた開運橋を渡る。開運橋は別名「二度泣き橋」とも言う。転勤で盛岡に来た人が「こんなところまで来てしまった」と泣きながら渡り、住めば都と盛岡人の温かさに触れた後、今度は「去りたくない」と泣きながら渡るのが由来。氷川きよしの歌にも『二度泣き橋』という曲がある。

北の寒さに襟立てて
駅に降り立つ人はみな人はみなこころ凍えて泣くという
北上川にかかる橋
誰が誰が誰が名付けた二度泣き橋と
ひとり暮らしのさびしさは
粉雪だけが知っている知っている

氷川きよし「二度泣き橋」/作詞:喜多條忠

 これを書いた作詞家の喜多條きたじょうまことさんと言えば、『神田川』(かぐや姫)を書いた人。放送作家から作詞家に転身し、数々のヒット曲を生みつつも、人生の中盤をボートレースに捧げ、還暦になって再び、演歌の世界で作詞活動を再開した。その自由な人生の歩みに、氷川きよしからKiinaへの華麗な転身も影響したのだろうか。日本人は一本筋が通っているとか、変化しないものを崇めすぎるきらいがあるけれど、人は変わっていい。筋が通るというのは他人から見える筋ではなく、自分のなかにある筋道だ。

 昨夜のお店「吉浜きっぴん食堂」の前を再び通って、幼い頃に盛岡に住んでいた知人から聞いた「リタ」というお店に寄ってみる。築100年以上は経とうかという古民家を生かした美しい佇まいのお店で、個人的に馴染みのある自然食品が多く並んでいて、その商品セレクトから、その原点に、服部みれいさんの存在を感じる。『冷えとりガールのスタイルブック』(服部みれい著、主婦と生活社)、『マーマーマガジン』(mm books)がもたらした影響はとても大きい。服部みれいさんのパートナーである福太郎くんが『Re:S』のファンでいてくれたことをご縁に、みれいさんとも仲良くさせてもらっていて、岐阜県美濃市のエムエムブックスにも何度かお邪魔させてもらったけれど、二人とも、お会いする度に、あたらしい種類のエネルギーを感じてすごいなあと思う。常に変化しながらも利他的なアクションを続けるみれいさんたちが蒔いた種が、各地で花開く姿を目にしては、こういう仕事をせねばと背筋が伸びる思いになる。店名の「リタ」には「利他」が内包されているに違いない。

 さらに20分以上歩いてたどり着いたTシャツ屋さん、6JUMBOPINS。移転オープン時には、件のcartaさんが出張喫茶をされていたりもして、オープンイベントに伺いたかったものの叶わず、気休めにお花を送ることくらいしかできなかった。だから今回の来盛では必ず立ち寄りたいと思っていたのだ。6JUMBOPINSは、盛岡に移転する前、秋田市の川反かわばた中央ビルという、ギャラリーやカフェの入った複合ビルにあった。秋田に通って仕事をしていた当時、イベントTシャツの制作などで何度もお世話になっていた。制作から販売までたった一人でやりきる店主の京野さんは、昭和のマンガやゲーム、映画、音楽などに詳しく、彼がまとっているカルチャーの空気を感じるために店に行くようなところがあったけれど、以前にもまして京野カラーが濃くなった店内に、なんだか嬉しくなる。京野さんの描くイラストも絶妙に好みで、来るべき春にむけて「山菜T」をゲット。浮かれた記念写真など撮って、もう一軒、行きたいと思っていた、「BOOKNERD(ブックナード)」という、数分先の書店へ移動する。


 BOOKNERDは書店でありながら、小さな版元さんでもある。いまや全国規模の売れっ子作家、盛岡在住のくどうれいんさんの本も出されていて、ずっと気になっていた。ガラス張りの扉を開けて中に入ると、なにやら店内の壁面ギャラリーで新しい展示の設営をされている。設営スタッフのかたたちの視線がぎゅっと僕に向けられて、少し緊張する。するとそこに居た一人の男性に「藤本さんっ」と声をかけられた。

 え?!

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