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届けるまで諦めない。

僕の手元に

『実った〝愛の一粒〟運動 善意の米は8トンに』

と書かれた昭和57年9月の秋田魁新報の記事がある。

この記事によると「愛の一粒運動」とは、飢えと病気に苦しむアフリカ大陸ソマリアの難民に秋田米を送ろうという運動で、日本ユニセフ協会「秋田友の会」代表の佐々木正光さん(当時32歳)が提唱したもの。県内各地の小中学校や公民館にダンボールやポリバケツを置いて米を募った結果、なんと約130俵、重さにして8トンものお米が集まったという。集まった米は佐々木さんの地元農協の倉庫で保管、その後、トラックで横浜港に運び、日本郵船の貨物船でソマリアに輸送、さらに国連のWFP(世界食糧計画)の手で難民キャンプまで送られる予定だと書かれている。

以上は魁新報の記事だが、「愛の一粒運動」の記事は他にも、朝日、読売、毎日、産経、など各紙で何度も取り上げられており、それらのコピーも僕の目の前にある。ちなみに翌年の記事では「今年も愛の一粒運動」「目標30トン」といった見出しもあった。

そもそも、なぜ僕の手元にこれらの記事があるかというと、上述の佐々木さんご本人にいただいたからだ。

食料自給率47都道府県中2位、再生可能エネルギー自給率1位という秋田は、もっと意欲的にサーキュラーエコノミーの実践事例をつくっていくべきじゃないか」と書いた、朝日新聞秋田版での僕の連載記事を佐々木さんが読んでくださったようで、ある日僕にメールをくれた。それをきっかけに、先日実際にお会いしてきたのだ。いただいたメールはこんな感じだった。

「りす」代表 藤本智士様
こんばんは
12月12日の新聞を拝見しました。
私は藤本さんが考えやってることを50年程関わってきました。
まだまだ成功や出来たといえるような状況では有りません。
がしかし辞めることも出来ず悶々と続けています。

「愛の一粒運動」も、半世紀にわたるその実践のほんの一欠片に過ぎないのだろう。しかし、それを一欠片と書いてしまったことに僕はいまとても抵抗がある。

実際にお会いした佐々木さんは70歳を超えているとは思えないほど溌剌とされていて、一目見た瞬間に実践の人だと感じた。2日間にわたって食事をご一緒させて貰ったのだけれど、そこでいただいた大先輩の言葉はいちいち重く、僕はその言葉のむこうのリアルを知りたくて、佐々木さんが取材を受けた過去記事のコピーをいただき、その後、旅の途中に隅々まで読んだ。それら膨大な量の記事たちを俯瞰でみる限り、「愛の一粒運動」は30代前半の佐々木さんを示す一つの出来事に過ぎなかった。

しかしここで、佐々木さんがしてこられた実践のさまざまをご紹介する気はない。今回僕が書きたいと思っているのは「愛の一粒運動」に対する各記事を見て感じた、メディアの使命や、編集者の仕事についての話。

「愛の一粒運動」に関する記事のほとんどが「一人の青年の呼びかけにより8トンもの米が集まった」という成果事象について書かれているもので、そのために佐々木さんが実際にどんな行動を重ねてきたのか? について書かれているのは20ほどある記事のなかのたった一つだけだった。

それは、毎日新聞秋田版1982年9月1日の記事のなかの一節。

昨年三月に計画を立ててから、東京に足を運ぶこと九回。農水省や外務省に出向いて輸出許可をとったり、日本郵船や日本ユニセフ協会の協力もとりつけた。

4段記事1段のうちのたった5行、文字数にして僅か70文字から、僕は佐々木さんの実践の苦労を想像して、平伏すような気持ちになった。思いつきが実現にいたるまでに、どれほどのステップが必要だったことだろう。佐々木さんの呼びかけが共感の嵐を巻き起こし、見事8トンの米が集まったという結果よりも、僕はこのたった5行にこそ、佐々木さんという人のすごさが詰まっていると思った。

難民支援の手立ての一つとして、秋田らしく米を送るのがいいんじゃないか?」「秋田は米どころだから米はたくさんある」「米を集めて送ろう!」 仮に同じ発想を持った人がたとして、ここまでカタチに出来る人がどれだけいただろう。

そもそも米を輸出していいのか?」「集まった米はどこで保管する?」「それをどうやってソマリアまで運ぶの?」「そこから難民キャンプに届けるにはどうやれば?

アイデアを現実のものにする過程で、普通なら「さすがに無理か」と、諦めてしまうハードルを、一歩一歩乗り超えていったその結果としての呼びかけだからこそ、多くの米を集めることができたのだ。そのことが、上述の毎日新聞記事以外からは、ほぼ感じられなかった。その唯一の記述ですら上記70文字だけだ。

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