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境界を曖昧にする

 あいもかわらず今日もまた、SNSでは「0」か「1」かの戦いが繰り広げられている。

 最近は、なんとなく白黒ハッキリではなくグレーに。とか、グラデーションを意識する。とか、曖昧さの重要性について語る人が増えているように思うけれど、それは現実の裏返しなのだろうか。

 僕は編集者をしているので、この白黒ハッキリ問題というのは、常に意識せざるを得ない問題で、20年間ほどずっとこの「白黒」に抗って生きてきたように思う。編集の仕事は「尺」つまりページ数や文字数と、伝えたいこととの折り合いだから、限りある尺に対して最大限届く言葉を並べようとするほどに、白か黒かどちらかの言説に偏りがちだ。そしてそれを人は好む。それゆえ「〜だ」よりも「〜だと僕は思う」とばかり書く僕を、逃げていると思う人もいるし、まわりくどいと言う人もいる。けれどこればっかりは仕方ない。この曖昧さに僕の矜持がある。

 90年代から現在にかけて、特にIT系のテクノロジーの進化がもたらしたものの多くは、白黒のシステムだと言える。それは、コンピューターが表現する多種多様な文字も画像も音声も映像も、そのすべてが、「0」と「1」というシンプルな数字だけで構成されていることに象徴されている。1でオン、0でオフ、その白黒のもとで僕たちは生活している。世の中がますます、白か黒か、0か1かになっていくのは、ある意味で仕方がないのかもしれない。

 しかし本来、僕たちは「0」と「1」の明滅で生きてはこなかった。陽が上り、陽が沈む、それはオンオフの二極ではなく、美しく連鎖した円環の流れそのもの。そんなふうに瞬間の捉えようがない移りゆく世界のなかで、生活をしてきた。

 けれどいまの世の中の多くは「0」「1」をもとに動き、「0」「1」を信仰し、「0」「1」をこそ正義としている。だからこそ、そういった考え方の象徴みたいな人が、持て囃される。

 「0」と「1」が支持されていくのは、伝搬力があるからだ。物事の構造がシンプルであるほど、伝わる力が強くなるのは、多くの人が実感することだろう。それゆえ消費させていくことを目標とする経済活動のすべてが「0」「1」に集約されていき、気づけば僕たちのまわりは、「0」「1」で溢れ、「0」「1」に翻弄される。

 『ニムト』というカードゲームを知っているだろうか? 旅先にも持って行きやすい手軽さと、簡単に理解できるルール。そして何より最大10人まで遊べるというのが、メンバーの多いチーム取材の合間に大活躍することもあって、趣味のアナログゲームコレクションのなかでも、かなり登場頻度の高いゲームになっている。

 トランプの七並べのように、場にある4列に数字の昇り順でカードを置き、列ごとに6枚目のカードを出してしまった人がアウトになるという簡単なルールで、限られた手持ちのカードをどこで出すかの駆け引きがとても面白いのだけれど、実は僕が持っている『二ムト』は、その20周年記念版で、通常版にはないカードが加えられている。それが0.1〜0.9の数字が書かれたカード。つまり「1」と「2」のあいだに「1.2」だとか「1.5」といったようにカードを置けてしまうゆえ、予想外の展開が起こり、ゲームが一層エキサイトするのだ。これがとんでもなく楽しい。

 この『ニムト』のように、「0」と「1」の間にある数値に気づけば、生活はより一層エキサイトする。それを知らぬクールな人生は、効率は上がっても、幸福は下がっていくように思う。この曖昧な境界の豊かさを知ることこそが、人生の豊かさを知ることにつながるというのが僕の持論。

 冒頭に書いたSNSの話題としてタイムリーなのは、秋田のまちなかに頻繁に出没するようになってしまった熊についての話。本来、山にいた熊たちがどんどん街中に降りてきて、出会う人を襲っている。それはかつてその境界にいたマタギの存在感が薄くなってしまっていることはもちろん、林業などの山仕事が減っていることから、人間と熊との曖昧な境界のグラデーションの幅が狭くなっていることが大きな原因の一つだ。

 現代において山に入る人の多くは、かつてのマタギなどと違って、経済合理性をベースとした損得ベースの山菜採りの人たちだったりもする。熊と人が互いに牽制し合うそのグラデーションに、欲望のままに足を踏み入れ、結果、人間が熊に襲われてしまうたびに、それまで曖昧だった区域に線引きがされ、侵入禁止になってしまうことで、グレーな領域はますます狭まっていた。それがついに、熊か人間か。生かすか殺すか。そういった「0」か「1」かの二極論となり、SNSを賑わせている。

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