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編集力とは「想像」と「言葉」を結びつける力

 先週、今年初めての秋田入りをした。
 まだお正月の4日ということもあって、誰に連絡するでもなくやってきた秋田は、お正月気分がそうさせるのか、なんだか故郷に帰ってきたような気持ちになって不思議だ。

 秋田市内ということもあるけれど、それでも思ったよりも雪は少なく、穏やかな気候に安心する。夜にzoom打ち合わせがあったからそのままホテルの部屋で夕食をとり、今回の秋田入りの目的である、講演の資料をまとめながら、眠ってしまった。

 朝、目が覚めると昨日とは打って変わって、えらい吹雪。積もる雪に不安が過ぎる……なんて夢を見た。しかし実際は見事に穏やかな気候。朝一番にホテルのサウナで1セットだけきめて、駅前へ。

 秋田駅からJR羽越本線に乗って約1時間の仁賀保駅近くに出来た新しい施設が今日の講演場所。午後の講演開始時間、45分前に着く特急への乗車を予定しているけれど、この羽越本線というのは頻繁に遅れることで有名だ。聞けば、以前悲しい事故があったのだという。それ以来、運転が慎重になっている。しかし慎重なのはわるいことじゃない。こうやって「あの電車はすぐ遅れるから」と周知されていれば、それなりに対策もできる。それゆえ僕はさらに一本早い電車に乗ろうと、密かに思っていた。

 何かと講演依頼をよく受ける僕だけれど、講演のための資料はほとんど作らない。どんな話題になっても対応できそうな画像データをフォルダにまとめておいて、あとは当日のお客さんの顔を見ながら、その場で話の内容を決めるタイプなので、事前にスライド的なものを作ると、自分で決めた道筋にしばられてしまいそうで、話していてつまらなくなるのだ。

 しかしそんな僕が今回は珍しく、せっせとスライド資料を作っていた。

 というのも、今回の講演は、小中学校の校長先生たち60名を対象とした講演で、秋田の教育に対しての期待みたいなものを話してほしいというものだったからだ。

 僕は最近よく、教育現場における編集力の育み方について考えている。もはや一流企業に入ったからといって幸福な人生が歩めるとは言えない時代で、「これがふつう」「そういうもの」「これさえやっておけばいい」といった言葉には違和感しかない。そんななかで多くの子供たちが自分なりの「好き」を見つけ育んでいくためには、僕が生業にしている「編集」の考え方がとてもフィットするように思うのだ。

 とはいえ、ただでさえ、英語だ、プログラミングだ、地域活動だと、上からさまざまが降りてきていっぱいいっぱいな教育現場に、さらに編集を学ぶ授業を加えたほうがいいなんてことは当然思っていない。それよりもそもそも教育現場で大切にされてきたもののなかに、編集力の基盤となるものがあるじゃないかと気づいた。

 それを伝えたいと思って資料を作っていたら、気づけば90分の講演なのに、スライド枚数が200枚を超えていた(編集しろ)。

 資料を作り終えて、ふと時計を見ると、密かに乗ろうと思っていた乗車時間は既に過ぎてしまっていて、仕方なく予定どおりの特急に乗り込んだ。順調な日でもなお、数分は遅れるのが常な冬の羽越本線。しかし今日はとても穏やかでまったく遅延なく仁賀保駅にたどり着いた。

窓の外の日本海が美しく、目の前を通り過ぎていく樹々に、知り合いのデザイナーさんが「秋田は日本の北欧だ」と言っていたことを思い出す。


 講演の実施にむけてさまざまに尽力いただいていた先生が、急に体調をわるくしてしまい、ご時世柄大事をとって代わりの先生が駅まで迎えにきてくれることに。駅から会場はほんの数分だった。みなさん、とても親切な方ばかりで、こんな若輩者に丁寧に接してくださり、ほんとうに申し訳ない気持ちになる。しかし気づけば僕も、せめて教頭先生くらいの年齢だから、たいして年齢は変わらないのかなと思い直す。

 挨拶や質疑応答などこめれば、2時間みっちりお喋りさせてもらい、なんとか話したいことを最後まで話し切った。これですぐに何が変化するということではないけれど、校長先生たちが「編集」という言葉を意識してくれたのは間違いなくて、そこに使命を感じている僕としてはとても嬉しく豊かな時間だった。

 ちなみに今回僕が話したことの骨子は、
 編集を育むことは国語力を育むことからはじまるということ。

 それは最近僕が「編集とは、想像と言葉を結びつける行為」だと考えているからだ。

 僕はこれまで「編集」というものの概念を広げていこうと、さまざまにアクションしてきたけれど、その輪郭がどこかぼんやりしてしまっていたのは、多くの人が想像する「文章の編集」から「編集」そのものを解放しようという考えが先に立ちすぎて、商品や場所、イベントやコミュニティなど、編集を施すメディアの多様性にばかり目を向けてしまっていたからだ。どんなにメディアが多様であろうとも、その真ん中に必ずある「言葉」というものに、僕はきちんと向き合えていなかったのかもしれない。

 以前の自分の記述だが、「編集を施すメディアはテキストメディアだけではない」とは、確かにそうなんだけれど、他のメディアにおいても「文字」や「言葉」は欠かせない。「言葉」の解像度の高さが、編集力の強さに直結しているということが、僕の最近の大きな気づきだった。

 「編集とは、想像と言葉を結びつける行為」ここにおける「想像」と「言葉」は、どちらが先というより、互いをもって解像度を高め合うものだ。豊富な言葉、つまり豊かな語彙が、物事の細部を感じ取る手立てとなっていることは間違いない。編集という言葉を知ることで、編集という概念が立ち上がるように、言葉と感性(想像)は密接に繋がっている。

 それこそ、僕の編集において「旅」が欠かせないのは、旅の経験がシンプルに僕の語彙を増やしてくれるからだ。方言はもちろんのこと、あたらしい言葉との出会いは、イコール新しい概念との出会い。また、同じものをさす言葉が地域によって変化することも、そのモノに対する視線の当てかたの違いを感じて面白い。冬のこの時期、タラの白子をアテに酒を飲むのが最高だけど、秋田ではタラの白子のことを「ダダミ」と言うし、青森では「タラキク」、北海道では「タチ」とか「タツ」と注文する。ちなみに京都では「くもこ(雲子)」。僕はそういう言葉の広がりに、世界の広がりと美しさを感じる。

 SNSの発信が大きな誤解を生みやすいことでわかるように、最近の世の中がギスギスしているのは、人々が使う言葉があまりに単調になってしまっているからだ。多様な言葉を持ち、より多くの表現を知る人は、想像力が豊かな人だ。想像力の豊かさを別の言葉で言うならば、それは優しさなのだと僕は思う。言葉をつくすとはそうやって想像の限りを尽くすということだ。

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