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インタビューのコツのはなし

いつのまにか6年間も編集長を続けていたWEBメディア「なんも大学」の記事更新を終了した。

今後は、アーカイブメディアとして残しておきつつも、積極的更新は基本的にしない。

その理由についてはさまざまあるのだけれど、とにかくその思いは、なんも大学の最終記事である、前・仙北市長の門脇光浩さんのインタビューに込めている。

なので今回ここで書きたいことは、この「インタビューに込めている」という部分についての話だ。

長く編集者を続けていると、若いライターさんに、インタビューのコツについて聞かれる場面が多々あるのだけれど、その度、僕なりの答えを絞り出しながら、いよいよ気づいた。そういった質問をされるライターさんたちと僕との間に、決定的に違う部分がある。

それは、インタビュー相手を自分が決めているか否か。つまり、僕の場合「○○さんにインタビューしてもらえませんか?」といった依頼のもとでインタビューをすることが、もはや皆無なのだ。けれど多くの職業ライターのみなさんは、何かしらの企画がすでに立ち上がっているうえで依頼を受け、インタビューをすることが多いはず。それはきっと僕とは勝手が違うはずだよなあと思う。

確かに僕も若いうちは、インタビューの依頼を受けたりもして、それはそれでご機嫌に仕事をしていたけれど、僕はだんだんとそういう仕事に向いていないことに気づいた。というのも僕は、インタビューに対して、何かしら自分以外の人の意図があって、それに合わせた答えを持って帰るという作業が致命的に苦手。なので、ひょっとすると僕にインタビューのコツを聞いてくる人たちも、その部分が実は同じなんじゃないか? と、ふと思った。

インタビューと言っても、現場にあるのはただの会話だ。それゆえ、その瞬間、僕と対話したからこそ生まれ出た言葉みたいなことに、僕は自分でいつもドキドキワクワクしていて、それはもちろん事前に想像できるものではないし、ましてやうまくコントロールして導きだせるものでもない。そんな中途半端な意図なんか超えて、相手との会話の波にうまく乗れたときにこそ、たどり着く島のような場所があって、その島にたどり着いてさえしまえばあとは会話するほどに、宝物のような言葉が積み重なっていく

そして、そういう時間は大抵、僕の思いや気持ちと相手の言葉がどんどんシンクロしていくのだ。

そのあくまでも結果論的な状態を、僕は「インタビューに込めた」と表現する。しかしこれは、100%棚ぼたな後付けでもなく、そのゴールをどこかで想像してもいるからこそ、そう言うのだと思う。

一方で、僕がイマイチだなあと感じるインタビューというのは、取材相手の頭のなかに既にある引き出しからのエピソードや言葉だけで尺が全部埋まってしまっているものだ。でも、そもそも企画ありきで依頼してもらうインタビューってそうなりがちなのかもしれない。随分、当たり前のことを書くようだけれど、それは、インタビューされる側はもちろんのこと、する方も自分の意思じゃないからだと思う。

僕はできる限り誰かの代弁ではなく、自分の意思をもって自らインタビューを依頼する。その気持ちを丸ごと抱いたまま話を聞きにいく。それが出来る立場でいたいからこそ、編集者をしているのだ。なので、僕に切実にそのコツを聞いてこられるプロのライターさんは、編集者になるべき人なんじゃないだろうか。

そしてここからは、今回の記事で僕が一番伝えたいこと。

僕がインタビューを依頼するときは、僕自身が世の中に対して何か言いたいことがあるときだ。しかし、僕はそれを自分の言葉で伝えることに限界を感じる。

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