「わかる」と「わかった気になる」との間にあるもの。
最近、まわりの友人たちが「わかりやすい!」「よくわかった」という言葉とともにシェアしている以下の記事に感じた、違和感を言葉にしておきたいと思う。
この記事を読んで
あなたは「わかりやすい」と納得しただろうか。
「うん、とてもよくわかった」
「この記事に何か問題あるの?」
と思う方は多いと思う。それくらいよくできた文章なのだとも思う。
けれど僕には、とても違和感がある。
そして、その違和感は書き手のスタンスの違いゆえに、読み手としては気づきずらいことなのかもしれないと思ったので、書いてみる。
ただ、ここで僕が言いたいことは、この方が書かれている内容の是非についてではない。
それよりも、この方が「12歳当時の自分にリアルな社会を教える」ことをコンセプトに「わかりやすさ」にこだわっている、という部分。
うん、そのことはとても素晴らしいと思う。実際にその努力をされているようにも思う。
僕も書き手として、出来るだけ、横文字やカタカナ語を使わないようにしたり、漢字をひらいたり(ひらがなにすること)、「わかりやすく」伝えることを心がけているけれど、その際に僕はいつも、こう自問自答する。
その「わかりやすい」は、「わかった気にさせやすい」になってないか?
僕は以前こんな記事を書いた。
ここに僕はこう書いている。
「言い切る」
このまるでドラッグのごとし誘惑に抗い続けることが編集者の良心だと思って僕は仕事をしてきた。
けれど世の中の多くは「言い切る」ことで安心感を与えたり、「言い切る」ことで信奉者を増やしたり、「言い切る」ことで逆に不安を与えて消費を煽ったり、そんなものであふれている。
仏教用語に「無明」という言葉がある。
無明とは真理に暗い、つまり、無知や迷いといった意味で、真理や智慧の光が届いていない状態のことを言う。
そしてこの無明が人間の苦しみを生む根源とされていて、この無明さえ取り除けば人は、生死や善悪などの二元的な世俗を離れて、仏に成ることができるという。
僕はこの「無明」という言葉を知ったとき、逆説的ではあるけれど、人間はそれほどまでに「無知」や「迷い」に苦しむものなんだと思った。
わからないままでいることの気持ちわるさや、ひっかかりのようなものが、無明となって、それが蓄積していくほどに生きることが苦しくなっていく。だからこそ、ひとはみな、それが安直だとわかっていてもなお「わかりたい」のだと。
だから「わかりやすい」は、とても魅力的な言葉だ。
だからこそ、書き手にとっても読み手にとっても「言い切る」は麻薬だ。
無明を取り除くために必要なものは「光明」だという。単なる知識や情報の量ではなく、たった一筋の光がそこに差し込むことで、それまでの闇が一気に明るみとなるような、まさに目の覚めるような体験こそが無明を取り除くもののはずで、それは本来、わかりやすさとは無縁のところにあるのだろう。
安易な「わかった」は大抵「わかった気になった」でしかない。
そして大抵の「わかりやすさ」は「言い切る」の多用からくる「わかった気にさせやすさ」で、そうやって得た「わかった(気になる)」は、結果的に「わかる」から最も遠くにあるんじゃないかと思う。
ゆえに僕は、この「言い切り」に対する向きあい方が違う人の文章に、どうしても違和感を感じてしまうのだ。
そしてもう一つ
最近、友人の塩瀬隆之くんと、安斎勇樹さんの共著である「問いのデザイン」という本を興味深く読んだのだけれど、
そこであらためて「問い」の大切さを知った。
当たり前だけれど
「問い」によって「答え」は変わる。
ちきりんさんの記事の中身に言及するつもりは、あまりないのだけれど、「問い」のことを説明したいので、敢えて触れさせてもらうと、例えばこの一つめの「問い」。
1)なぜ今、こんなキャンペーンをするのか? もっと後でもいいのでは?
この「問い」に対する「答え」は、読む前からほぼ明らかだ。つまり、なぜ今でなければいけないかの理由が書いているに違いないし、実際その通りだった。
しかし
この問いが、もしこうならばどうだろう?
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