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地域編集の未来と苦悩

軽トラ旅

秋田で借りていたアパートを引き払い、小さな引越し便よろしく愛車の軽トラで秋田から神戸まで南下する日々、今朝は石川県小松市でこのnoteを書いている。

年度末ということで、こんなふうに何かを卒業して、あらたな生活に胸を躍らせる人たちも多いんだろうと思う。かれこれ10年以上通い詰めてきた、秋田県、にかほ市の街を出るのはなんだかとても寂しい気持ちがしたけれど、それでも僕は会う人たちに「さよなら」は言わなかった。これは未練とかじゃなくて、単に関わり方の接点が変化するだけだと思うからだ。僕の心の内と、にかほのフィジカルな地が触れ合う接触面積が減るだけで、それはつまり開いた傘より、閉じた傘の方が砂場に深く刺さっていくような、そんな力学のはなし。

なので正直、この10年を総括、整理する気持ちにはあまりなれないのだけれど、やっぱりそれはそれで一度整理しておかないと、そういう機会を無くしそうな気がするのでnoteにしたためておこうと思った。なので、今回のnoteは僕がにかほで何を果たせて、何をやれなかったのかの記録。

noteメンバーのみなさんには申し訳ないくらい、文字量も多く、且つ、面白みのない記述も多いけれど、これもいつかのための貴重な記録ゆえ、お付き合いいただけたら嬉しい。よそ者が地方で踏ん張ってきた10年間の赤裸々なアーカイブ。

にかほは玄関

そもそも僕にとって、秋田県にかほ市というのは、まさに秋田の玄関だった。というのも、僕は当時、いままさに軽トラで南下しているその逆のルートで、神戸から日本海側をぐんぐん北上して秋田にやってきていた。

兵庫→大阪→京都→滋賀を越えて、福井→石川→富山と北陸道を駆け抜ける。さらには、長い長い新潟県をなんとか越えて、ようやく東北、山形へ。秋田との県境にある鳥海山の姿がみえてきたら、秋田はすぐそこ。鶴岡→酒田→遊佐という個性強い町を振り切ったのち、いよいよ秋田の県境を超えたその場所がにかほ市だった。

十数時間の運転を経て、ようやく入った秋田県。その安堵とともに、道の駅象潟きさかたの温泉に浸かり休憩。そこで今一度スイッチを入れ直して再び車に乗って1時間半。ようやく辿り着くのが目的地の秋田市。つまりにかほは、秋田の玄関でありながら、ひとときの通過点でもあった。

その頃から僕は、にかほ市はまさに秋田の南の玄関なのに、どうして「ようこそ秋田へ!」という顔をしていなんだろう、と不思議に思っていた。こちとらとんでもない長距離の末にやってきているのだから、もう少しだけでいいから、Welcome AKITA!って感じでいてくれたら嬉しいのになあと思っていて、僕のにかほに対する、もったいないぞという気持ちの原点は意外にもそこにあったりする。

池田修三のこと

そんなふうに、にかほを超えて秋田市に入り、秋田駅前のホテルを拠点にしながら、県内各地を取材してまわったフリーマガジン『のんびり』。そのお仕事のなかで、池田修三という木版画家を特集したことが、にかほと僕の距離を近づけてくれた。その顛末はここでは割愛するけれど、とにかくにかほ市象潟町出身の池田修三さんの作品をあらためて再評価していもらう流れを作ろうと、さまざまに奮闘。そこについては以下の記事に詳しくあるので、興味をもってくださった方がいらっしゃったらぜひ読んでみてほしい。

この池田修三さんという木版画家およびその作品に、心底惚れ込んだ僕は、当初、修三さんの作品を自分の車の荷台に乗せて、東北各地はもちろん、関東、関西、四国、九州など日本全国、自ら展示搬入をしてトークイベントをして本を売って帰るという自主巡回を自腹で続けた。いま考えたらとんでもないエネルギーだけど、よくもまあ、お金もないのにやってたもんだなと思う。自分で言うのもなんだけれど、それくらい情熱があったのだ。

大阪
山形
東京
島根

認知とともに大きくなる苦悩

そうやって徐々に全国にファンが増えていくにつれて、秋田県内での評価も高まっていき、丸々1年そんなことを続けていくなかで、秋田県庁のみなさんが、僕の活動をフォローしてくれるようになり、そのお陰で、生前も叶わなかった美術館での展覧会を開催。9日間で12,000人もの人が訪れてくれた。

その後ようやく、地元にかほ市役所のみなさんとも連携。一緒になって補助金申請をしたりして、池田修三の認知は爆上がり。その結果、いまや秋田空港に降りたてば「池田修三のふるさと秋田へようこそ」というメッセージとともに、修三作品が出迎えてくれるまでになった。

由利鉄とのコラボもあったなあ

しかし、そうやって池田修三というコンテンツが盛り上がっていくほどに、実はその裏で「あいつは池田修三で儲けている」といった噂が立つようになり、悩むようになった。根も歯もないその噂が僕だけでとどまっていればいいけれど、著作権を管理している親族の方たちにもその影響が出てしまって、いよいよ苦しんだ。当たり前だけど、先述の通り、僕が自分自身の熱量で動き回った事柄の多くは、何かの予算をもらってやっていたものではないし(広まってからは別)、そもそも池田家のみなさんなんて、グッズなどで発生するロイヤリティの全額をにかほ市に寄付されていたくらい、一円も自分たちのお金になんてしていないのに、それでもそんな噂が広まるのはとても心苦しかった。しかし、よそ者の僕がかかわる以上、それは仕方がないのかもしれないと思い、僕はいよいよ、池田修三さんについて一切のかかわりをやめて距離を置くことにした。いまとなっては、それでよかったのだと思えるけれど、当時は正直、かなり辛い決断だったことを思い出す。

にかほの風土の魅力

地域編集なる言葉を掲げ、地方に深く入り込みながら、編集活動を続けていた僕は、よそ者だからこそできることに真摯に取り組んでいたつもりだけれど、そのスピード感の差や、今思えば町のみなさんに対する配慮がたりなかった部分がたくさんあったのだと思う。近しい人はわかってくれるだろうけれど、あの頃の僕はもう、完全に闇落ちしていた。いわゆる人間不信状態で、なんとかして頭と気持ちを切り替えようと必死だった。

というのも、当時の僕は、池田修三さん案件でにかほに通いすぎて、もはや池田修三というコンテンツ以上に、にかほの風土そのものに惹かれてしまっていた。それに反して、ある意味で僕の勇み足な動きに対する反発のようなものが膨らんでしまって、とにかく苦しかった。地域でよそ者が活動をするには、足並みをそろえていくことがとてもとても必要だ。それが土地に対するリスペクトというものだと思う。大好きな修三さんの作品が、どんどん再評価されていく喜びが勝ってしまって、そういう配慮がいつしか足りなくなっていたに違いない。

しかし、鳥海山と日本海に挟まれたその豊かな土地の魅力は変化しない。にかほの魅力は、この街に訪れてもらえればすぐにわかってもらえる。そんなつよい確信が僕にはあった。

娘のそらが来てくれた時の写真。いい時間だったなあ。

実際、関西や関東からきてくれる友人たちの多くが、日本海に陽が沈むさまや、その夕日を受けて輝く鳥海山の凛々しい姿を、延々と眺めたまま、一向にその場から離れようとしなかった。それくらいにかほの風土の美しさは圧倒的だった。

Re:Schoolのメンバーがきてくれたときの写真。

とにかく、にかほに来てくれさえすればいい。そのきっかけは、修三作品じゃなくてもいいから、この町になんとかして人がやってくる仕掛けをつくりたい。辛い気持ちを上書きするように、僕は新たな企画について考えていた。

そこでスタートさせたのが「いちじくいち」というイベントだ。

北限のいちじく

北限のいちじくと言われる、秋田県にかほ市のいちじく。僕がふだん関西で食べる赤くてでっぷりとしたいちじくとは違い、小さく青いその姿に、僕は最初、どうしてこんなに若いうちにもぎ取ってしまうんだろうと不思議に思ったけれど、その小ぶりないちじくがすでに成熟した実であると知って驚いた。そもそも関東以西で食べられているいちじくと、北限のいちじくは品種が違っていた。

僕たちが食べているいちじくの多くは桝井ドーフィンという品種で、にかほで育てられているのは、ホワイトゼノアという品種だと教えられた。

ホワイトゼノアは他の品種に比べて糖度も低いため、にかほのみなさんはそのいちじくを甘露煮にして食す文化がある。そこには冬の厳しい、東北独特の保存食文化が影響しているのだけれど、その強烈な甘さが、よそ者の僕にとってはかなりきつかった。とにかく甘〜〜〜〜〜〜いのだ。

糖度が高いほど保存が効くということだと思うのだけど、いまどき冷蔵庫もあるわけだから、もう少し甘さを抑えて、いちじくのコンポートとして瓶詰めして売ったりすれば、都会のDEAN & DELUCAとかでも並んでそうだし、つまりはそこに【編集の余地】を感じた僕は、そんないちじくを軸にしたマルシェを開催しようと思ったのだ。甘露煮という文化を否定するのではなく、その文化を未来につなぐための編集が必要だった。

5000人がやってきた!

初年度、いちじく生産が盛んな大竹という集落近くの廃校を会場に開催した「いちじくいち」。なんとか1000人は来て欲しいと頑張った結果、蓋を開ければ来場者数5000人と大混雑。2キロ先まで渋滞がおこり、道端に溢れる路駐に、警察にもお客さんにも死ぬほど怒られまくった。

2年目以降さらに動員も増え、編集を施すことで、ものの見事に、にかほのいちじくが、みんなが欲しくてたまらない果実に変化したことを実感した。オープン前から500人の行列ができる姿に、なんだかおそろしいような気持ちになったことを覚えている。

本当に色々あったけれど、それでもやっぱりいちじくいちは大成功だったと思う。池田修三さんとの動きと同様、補助金に頼らずにスタートしたどころか、いちじくいちについては、それを最後までキープすることを決めていたので、最初二年間は大赤字だったけれど、3年目でようやく黒字になり、4年目にはようやく地域の人たちにバトンを渡せるくらいになった。そのときの喜びのnoteは以下だ。

いちじくいちの顛末に関しては、5回にわたってミシマガの連載にも書いているので、興味があればこちらもぜひ。

いろんな失敗を重ねたけれど、踏ん張ってきてよかったなあと幸福な気持ちでいっぱいになり、次年度以降の動きにとてもワクワクしていたのだけれど、そこにまさか新型コロナウイルスがやってきた。当然コロナには抗えず、以降、いちじくいちは中止となってしまった。

発覚した意外な事実

毎年毎年、夜中遅くまで設営を手伝ってくださる町のみなさんの姿に、なんだか町が一つになっていくような、そんな豊かで温かい気持ちを感じていた僕は、いちじくいちの火を消してしまうのは勿体無いと、オンラインいちじくいちを提案。手探りながらもやってみようとなった。そこで、いちじくにとても詳しい、細見彰洋さんという、公益財団法人東洋食品研究所の研究員で農学博士をゲストに迎え、トークをしたのだが、その際に細見さんの口からある衝撃的な事実を知らされる。

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