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バトンは退くことでしか渡せない。

仕事を終えて兵庫県に戻るべく秋田空港に入ると、普段は見かけないような色黒で坊主頭の男子高校生たちがたくさんいる。「ひょっとして?」と思ったらやはり、11日の甲子園初戦にむけて兵庫県に向かう秋田市の明桜高校野球部の部員たちだった。偶然ながら同じ飛行機に同乗させてもらえることがなんだか嬉しくて、今年は彼らを精一杯応援したい気持ちになった。

というのも、コロナ禍でさまざまに気を使いながら粛々と仕事をすすめる日々のなか、空港にいる彼らの喜びに満ち溢れた姿に未来を感じたからだ。連日報道される、世の大人たちの惨めさと情けなさに比べ、彼らはとても逞しくて美しい。やはり大人の一番の役割は、うまく退くことでしかないなと思った。

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実は空港について彼らの存在より先に気になったものがあって、それが空港内で開催されていたとある展示だった。その展示とは以下のようなもの。

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秋田県にかほ市象潟(きさかた)町出身の木版画家、池田修三さんの展示が空港内で行われていた

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池田修三さんに僕はとても深い思入れがある。2004年に82歳でお亡くなりになった池田修三さんは、浮世絵の世界では絵師、彫師、摺師がそれぞれに分業する作業をすべて一人で行い、できる限り多くのエディションを擦ることで、一つ一つの作品単価を下げ、より多くの人たちに自分の作品原画を届けたいと願った稀有な作家で、修三さんの地元にかほ市象潟町の多くの家庭に彼の作品がいまもなお飾られている。

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暮らしの中に在る作品の姿に心打たれた僕は2012年に編集長をしていた「のんびり」という雑誌で池田修三さんの特集を組み、その特集の文章を再録した池田修三木版画集『センチメンタルの青い旗』を編著として出版。自分の車に作品を積み込み、日本全国で展覧会を開催。自分で搬入してトークして本を売って帰るという地道な活動を続けて、池田修三という稀有な作家の存在を日本全国に広めるべく様々にアクションした。

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その後も様々な人たちの助けを借りて、生前も叶わなかった秋田県立美術館での展覧会を開催。9日間で1万2千人を動員した。また渋谷のスクランブル交差点から見える場所に縦10メートル以上の大きな作品が飾られるなどして、徐々に秋田の人たちのなかに、池田修三は秋田の宝物であるという認識が芽生えていった。

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初めて地元の象潟駅に降り立ったときは、池田の「い」の字もなかったけれど、いまでは「池田修三のまちにようこそ」と書かれた作品パネルがホームで待ち構えている。にかほ市の公用車にも作品がラッピングされたり、ときに地元タクシーや鉄道までもラッピングされるほどになった。さらには秋田県の中学生にむけた美術の資料集の表紙を何年も飾り、池田修三の名はたった数年で大きく認知され、その作品世界を未来へとつなぐお手伝いができたのではないかと自負している。

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それゆえ、池田修三さんの様々は、編集者である僕にとって決して忘れられない大きな仕事の一つだ。

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そんな池田修三さんの展覧会が空港内で開催されていた。もちろん僕はまったくノータッチだし、開催されていること自体、空港ではじめて知った。そしてその展覧会がとてもよい展示であることに感動した。きちんと編集されてわかりやすく、プロの手が入った素晴らしい展示だった。実は僕は、ある時点から池田修三さんに関わるさまざまから身を引いた。それでよかったんだなと思って、僕は心底ホッとした。

やはり、バトンは退くことでしか渡せない

修三さんの展示を見て、そう思っていたところに、明桜高校野球部のキラキラした生徒たちと出会ったから僕は余計に気づきをもらった。甲子園は高校生という若き一瞬にしか挑戦できない。だからこそ素晴らしいのだ。何年も何年もそこに居座り続けることはできない仕組みが、甲子園の素晴らしさなんだと当たり前のことをあらためて思った。幾つになっても挑戦する気持ちは確かに大切だけれど、若者たちが挑戦する権利を「よかれ」という顔をしながら自分の都合で奪っている大人たちの多いことよ。

以下のようなニュースを見るたびに辛くなる。

僕は逆に60歳で隠居制を提案したいくらいだ。


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実は今回の秋田入りで僕は、山形県鶴岡市にある羽黒山の宿望「大聖坊(だいしょうぼう)の山伏、星野先達にお会いしてきた。というかそれが一番の目的と言ってもよかった。にかほ市で鳥海山伏を目指す友人がぜひ紹介したいと声をかけてくれたことと、これまた古い友人のNHKのディレクターが、星野先達を追ったドキュメント番組を制作、それが最近放映されたことなど、いろいろとタイミングが重なって、まさに会うべき時にお会いできたような気がしている。

そこで僕がいま取り組んでいる、秋田での仕事についてお話をさせてもらったのだけれど、あらためてそこで「風」(余所者)と「土」(土地の人)の役割について教えられた。一言で言えば「風の人間にできることなんてたかが知れている」ということだ。その土地で脈々と受け継がれる命のつながりのなかで生きてきた人々に、ふらっとやってきた余所者がやれることなんて大したことはない。それよりも、土の人たちの日常にこそ素晴らしさがあるのだと。

僕自身「風の人」としての役割というものをいつも意識して行動してきたつもりだったし、「土の人」の日々にあるスペシャルをどう紡いでいくかを大切にしていたはずなのに、どこかで何かわかったような奢った気持ちをもっていなかっただろうか? と自問した。

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かつて池田修三さんのことから身を引いた時、僕は正直、とても未練があった。もっと出来る。もっとやりたい。もっとやらねば。そう思っていた。けれど、一方でこのまま僕が主体になり続ければ、生前の修三さんの意思から外れていくような気もしはじめていた。

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