SとNの間にあるもの 〜中編・東彼杵の衝撃〜
大村湾を理解する
リポート(REPORT SASEBO)の小仙くんは、佐世保へと向かう道中にある東彼杵という町が面白いから案内したいという。何一つ予定を決めていなかった僕はありがたいばかりだと、言われるまま東彼杵に向かってもらった。長崎県のほぼ中央部、大村湾の東側に面する東彼杵町は、県下最大級のひさご塚古墳があったり、江戸時代には長崎街道の宿場町として栄えた歴史ある町だという。しかし僕は今回訪れるまで「彼杵」という字を「そのぎ」と読むことさえできなかった。
そもそも、長崎の地理に対する理解は、県の中心に大きな湖のようにある大村湾を認識することからはじまる。
これまでの人生で僕が、やれ「長崎に行ってきた」「長崎でイベントをした」と得意げに言っていたのは、ただ長崎市内に行ってきたというだけの話。地図を見ればわかるように、長崎市は長崎県のほぼ最南の小さな町だ。大村湾を挟んで反対側、北部にあるのが今回の目的地、佐世保。長崎空港は大村湾の東側にある。さらにこの画面をピンチインしてみると、福江島をはじめとする五島列島のでかさにも驚く。
すべては旅が教えてくれる
僕は子供の頃から地理や歴史の授業が大嫌いだった。いま思えば、そこに確かにあるはずの人間の物語を無視した、詰め込み型の授業が嫌で、いい国(1192)つくろう鎌倉幕府のような、語呂合わせなどに騙されるものか! と、謎の反骨が立ち上がったほど。(※ちなみに現在の中学歴史教科書の多くは、1192年から1185年に変わってる。いいはこ(1185)つくろう鎌倉幕府とか、知らねー!)せめてあの頃、大河ドラマや歴史小説にでもはまっていたら違っただろうに。とにかく記憶ゲームみたいな社会の授業が嫌いで嫌いで、それゆえ、僕の地理や歴史の知識は、教科書ではなく、ほぼ全て旅が教えてくれた。
しかも僕は旅をすること自体、32歳を超える頃まで大嫌いだったから、僕の地理や歴史の知識は大人になってからの蓄積。けれど30歳前後のいい大人が旅を通して知る歴史、日本の風土の美しさ、食べ物の美味しさ、祭りや神事の気高さは、人生観を180度変えてしまうほどの衝撃だった。人生で大切なものを教えてくれるのは「旅」と「本」と「人」というけれど、僕はまさに32歳のときに、この3つを軸に生きることを決めた。もし僕が、人より少しばかり気づきの多い人生を送っているとするならば、それはすべて「旅」がもたらしたものだ。
Sorriso riso
まずやってきたのは「Sorriso riso」。読み方はソリッソ リッソ。イタリア語の「Sorriso=ほほえみ」と「riso=米」から付けられたその名のとおり、古い農協米倉庫を改装して出来た施設だという。
長﨑空港から佐世保へと向かう通り道にある東彼杵町は、かつて「通りすがりの町」と言われていた。通りすがりであっても立ち寄ってくれるならまだ良い気もするが、実際は「通り過ぎる町」になりつつあったのかもしれない。そんな現実に、若者たちが立ち上がる。
この町にはせっかく面白い人たちがたくさんいるのに、そういう人たちが繋がる場所もなければ、会いにきてもらえるような場所もない。そんな時に聞こえてきたのが農協米倉庫が解体されるらしいという噂。それを聞いた若者たちの熱い思いと、未来を見据えた計画に、東彼杵町役場や、農協の方が、解体方針を転換。若者たちのアクションと情熱が町を動かし、2015年にオープンしたのが、Sorriso risoだった。
それから約10年が経ったいまも、さまざまに変化を重ねながら、このエリアに魅力を感じた移住者たちの起業や独立を後押しする場所として、重要な役割を果たしている。
買い物は投票(VOTE)
Sorriso risoに入る「Tsubame Coffee」は、10年前のオープン時からある、いまや貴重なお店。新潟県燕市に住む友人が営む「ツバメコーヒー」と同じ名前なことが気になって、店主の女性に名前の由来を聞いてみると、「ツバメに巣帰りの習性があるように、この場所を訪れた方がまた戻ってきてくれたり、この土地で生まれた若者が再びこの地域に戻ってきてくれるように、という願いを込めている」と教えてくれた。
Sorriso risoを出てすぐ隣に「vote」という名のアートショップがあり、障害をもった人たちの就労支援施設でつくられた絵画作品や、それらを活用した雑貨がたくさん販売されていた。その意義を超えて、並ぶ商品がシンプルに魅力的。特にフラワーベースが可愛くて、旅の冒頭ながら、店名の「vote(投票)」に倣い、ここで一票投じるのもよいかと思ったけれど、まさかこの先にラスボス級のお店が待っていようとは思わない。結果、僕が一票を投じるのはここではなく、その裏手にあるお店だった。
Sorriso risoの立ち上げメンバーの一人でもある、沖永さんという男性が営む、古着とアンティークのお店「GONUTS」は、「vote」のすぐ裏にあった。正直僕は、このお店に圧倒されすぎて、東彼杵の他のお店の記憶が霞んでしまったほど。それくらい強烈なインパクトを受けた。
店構えからして、なんだかヤバそうな空気が漂っていたものの、その扉をくぐった先の景色は、想像を絶した。
な、なんだここ?
内外装、細部に至るまですべてに感じる独特の世界観。映画のセットや舞台美術のお仕事でもされていたのだろうかと思うほどのクオリティ。これをほぼ一人でセルフビルドしたという事実に圧倒された。よくぞここまで集めたものだという数々のアンティークと、古着たちが抜群のセンスでディスプレイされている。地方取材をしているとたまに出くわす、ローカル癖強おじさんではなく、ガチセンスの塊。間違いなく天才のしごと。この人とお仕事したいという気持ちが爆発しそうになった。愛といえばチープに聞こえるけれど、とにかく古いものに対する絶対的な信頼がそこにある。ただただリスペクトな気持ちで沖永さん自らデザインしたというオリジナルTシャツに一票投じた。
umino わ
連れてきてくれた小仙くん曰く、この町には沖永さんと同級生の森さんという男性がいて、その森さんが、東彼杵町の現在をつくっている一番のキーマンだという。そんなことを聞かされたら、会ってみたい気持ちになるけれど、残念ながら今日は大学での講義の日で、森さんは東彼杵にいらっしゃらないとのこと。そこで仕方なくではないけれど、森さんが関わっている、また別の交流拠点施設「umino わ」にオープンした「社食ごはんウラノ」という食堂でランチをしようという流れに。
コインランドリーと併設されたその食堂は、農機具の部品から始まり、航空機の部品なども製作する創業70年の金属加工会社、株式会社ウラノの開かれた社食。ここ長崎をはじめ、全国3拠点に工場を持つURANOが、社員さんの心のケア、食料問題や環境問題、地域の問題の認知・共有に繋げる活動をと、始めた農を中心とした新事業・URANIWAの活動の一環だという。
お野菜いっぱいな酢豚の定食をチョイス。近くで育てられている平飼いの卵を使った卵ご飯まで、いただいて大満足。
日本一のお茶
よきランチタイムを経て、一層、森さんという人物のことが気になったものの、腹ごしらえも済ませたので、そろそろ佐世保方面に向かうことに。大村湾沿いの道を再び北上する。その道すがら、やたらと目にするのが「日本一、そのぎ茶」と書かれた看板。実は長崎県のお茶の60%がここ東彼杵町で生産されており、近年の全国茶品評会において、産地賞と、生産者の最高賞である農林水産大臣賞を何度もW受賞しているのだそう。正真正銘、日本一のお茶の生産地だ。いやあ知らなかった。
そこで思い出したのは、お隣佐賀県の嬉野茶。今回の旅のきっかけをくれた佐賀県嬉野温泉の老舗旅館「大村屋」15代目当主の北川健太くんは、嬉野茶の茶畑を軸にティーツーリズムを提唱し、そのブランド化に大きく寄与した張本人。それゆえ僕は、健太くんの活動から、嬉野茶の存在は知っていたものの、そのぎ茶に関してはまったく知らなかった。そこで再び下の地図を見て欲しい。
東彼杵と嬉野はなんだ隣町じゃないか。つまり長崎と佐賀の県境がなければ気候風土がほぼ同じ土地。またしても僕のなかで、S(aga)とN(agaksaki)の距離が近づく。現在の佐賀と長崎(壱岐市・対馬市は除く)は、かつて「肥前国」と呼ばれていた。
白村江の戦い
まさに教科書に出てきたから、名前だけは聞いたことがある「白村江の戦い」。あれは、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済が、再起を図って、友好関係にあった倭の国(日本)に援助を要請。それを受けた日本と百済の連合軍が、唐・新羅の連合軍と戦った戦。その結果、大敗を喫した日本は、いつ朝鮮半島から攻めてこられるか気が気でなかった。地理的に朝鮮半島からの侵攻に対する防衛の要だった肥前国。その結束も強かったに違いない。
好きではなかった歴史を旅を通して学ぶというよりは、その土地の史実から、かつての人々の心情を想像するのは旅の大きな楽しみの一つだ。こうやって50歳のおじさんが、世間では常識と言われるような歴史を体感とともにインストールする。僕にとっての旅はまさにこういうこと。だから僕は「そんなことも知らないの?」という態度をとる人がとても苦手。いろんな地方に旅をしていることから、間違って博識に思われたりすることもあるけれど、当たり前ながら、僕は無知だし、知らぬことだらけ。けれど僕は、そんな無知の自覚の上でなお、堂々と自分の考えを語ることの大切さだけは知っている。その方がよっぽど大事じゃないか。
佐世保方面に向かう僕に、なんだか不思議な光景が現れたと思ったら、あの有名なハウステンボスだった。「ハウステンボスに行くぞ!」ではなく、こうやって旅の途中に突然出合う体験すると、そもそもどうしてこんな土地に、ここまで巨大なテーマパークができたのだろうという、素朴な疑問が立ち上がってくる。
ハウステンボスのこと
ハウステンボスがある土地は、かつて海だったという。それが江戸時代の水田干拓で徐々に陸地に変わり、昭和の時代には、海軍施設の建設のために埋め立てが行われた。さらに工業団地をつくる計画のもと、さらに埋め立て地が拡張されたものの、実際は企業誘致が進まず、計画は頓挫する。
1980年代、もはや荒地と化していた152万㎡もの土地に、新しい街を創ろうという話が持ち上がる。その際に描かれたビジョンには、経済発展をベースにしながらも、そもそも人間都合で埋め立てられたこの土地を自然の姿へ戻したいという思いも込められていたという。80年代のイケイケな時代にそのような発想があったことに驚く。
当時すでに大村湾西岸で運営され、成功をおさめていた長崎オランダ村。それを拡大するかたちでハウステンボスは生まれた。しかし当時、長崎オランダ村株式会社が買い上げた土地は、敷地のほぼ全域がヘドロや、砕石されぬまま投棄された巨石で埋め立てられていて、水捌けがわるく、樹木が生えない土地だった。そこで土地購入費以上の投資で土地を掘削、有機堆肥を混入して土壌改良し、綿密な周辺調査の結果から、約40万本の樹木と30万本の花を植栽したという。すごい話だ。
90年代は360万人もの来場者を誇ったハウステンボスだが、入場者は激減、さまざまに経営が変化していく。2010年にエイチ・アイ・エス(H.I.S.)を中心に再建が計られたものの、2022年9月、HISは子会社ハウステンボスの全株式を香港の投資会社PAGに666億6000万円で売却した。白村江の戦いからの長き歴史の流れと、その顛末にさまざまを思うのは僕だけだろうか。
奇跡のすれ違い
そんなハウステンボスを過ぎ、トイレ休憩していたときのこと。小仙くんの携帯にメッセージが届いた。なんとその相手は、今日は大学の講義で東彼杵にはいないと言われていた森さんだった。森さんがいらした大学がまさにハウステンボスの近くにあり、講義を終えて東彼杵に戻ろうと車を走らせていたところ、小仙くんらしき車と今すれ違った。と連絡があったのだ。なんという奇跡。その結果、今日は会えないと諦めていた森さんと、近くの「mellow」というカフェで落ち合うことになった。
一般社団法人 東彼杵ひとこともの公社の代表理事として、空き店舗や空き家を活用したエリアイノベーションに取り組む森さんは、実に魅力的な人物だった。最初に訪れたSorriso risoをベースに、たった5年間で約20もの起業、開業を支援しているというのだから、本当にすごい。ここで多くを語らないが、森さんとの有意義なお茶時間は、いわば僕のなかでまったくノーマークだった東彼杵町をより一層魅力的な町に変化させてくれた。
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