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「待つチカラ」は「信じるチカラ」

主宰しているオンラインコミュニティ「Re:School(りスクール)」で最近、メンバーのみんなが僕に質問を投げてくれるかたちで、僕自身の編集論を読み解く会を開いてくれている。

そこで僕が、普段よく話す「待つチカラ」について質問を受けた。それはとてもシンプルなもので、「待つことの不安はないのか?」というもの。

その質問を受けて、色々と考えているうちに、僕が「待つチカラ」と言っているものは、本当のところ「忘れるチカラ」なのかもしれないと思った。「待つ」と言われたら、まるでご主人の帰りをじっと待つハチ公のようなイメージを持つのも当然だ。しかし実際はふとした瞬間に思い出すだけで、それ以外の日々は「待つ」というよりただ忘れている。しかし単なる忘却と違うのは、諦めていないということ

言い方を変えれば思い出す時がいずれ来ることを信じている。そしてそのタイミングはコントロールできるものではない。だからこそ、何かの拍子にそれを思い出したときは、これはきっと何かの啓示だと、すぐさま何かしらのアクションを起こしてみる。僕なりのポイントがあるなら、そこかもしれないなと思う。

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馬川亜弓という僕にとってとても大切な木版画家がいる。馬川の作品と初めて出合ったのは確か美大の卒業制作作品だったように思うから、彼女がまだ22歳頃だろうか。誰しもが生きている限り、拭うことのできない孤独を、なんとか俯瞰しようと試みているような、そんな表現に稀有な作家性を感じた僕は、すぐさま彼女に声をかけて、個展をプロデュースしたり、雑誌の仕事を紹介してみたり、そこからしばらく、いろんなお仕事をご一緒させてもらった。しかし三年くらい経った頃だろうか、僕は彼女に対して相当厳しいことを言ってしまって、もちろんそれは僕なりの愛だったんだけど、いま思えば僕も馬川も若かった。

そこから七年間音信不通の日々が続く。

その間、彼女の作家活動を耳にすることもなくなり、不安に思うこともなかったとは言えないけれど、それでも僕は自分の一言が一人の作家の可能性を潰してしまったかもしれないとか、そんなふうには思わなかった。つまりは信じていた。だから七年たったあの日、奈良のとあるカフェで一枚のフライヤーを見つけたとき、身体が自然と動いたのだと思う。

Twitterを見返すと2015年6月19日とある。
偶然見つけたそのフライヤーは馬川亜弓の個展の知らせで、まさに開催中。しかも会場は歩いてすぐの場所だった。七年間連絡を取れなかったことの気まずさとか、不安とか、そんなことはもはや頭になかった。ただただ、木版画を続けてくれていたこと。その作品が見られることの喜び。その思いだけで僕は会場に向かった。

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そして見た馬川の作品の素晴らしさ。僕は身体が熱くなるのを感じた。心底作品に感動していたら、しかもそこに彼女が居た。来場者の方に寄り添い、作品について説明を続ける一人の女性は、ギャラリーのスタッフじゃなく、馬川亜弓本人だった。僕はタイミングを見計らって彼女に声をかけた。──途端、もう、お互いに腰が砕けそうになって、二人して泣いた。作品を作り続けてくれていたこと。しかもその技術も表現力も格段に上がっていることが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。その日、なぜだかふと、奈良に行こうと思い立ったことの意味。自分の意図とは違う何かしらのチカラを感じて感謝の気持ちでいっぱいになった。彼女はもちろん毎日在廊しているわけではない。たまたま今日は職場が休みで、平日ながらも会場にやってきたところだったという。

当時僕は、秋田県で池田修三さんという今は亡き木版画家の作品に出合い、なんとかその才能を評価してもらいたいと、必死に活動していたのだけれど、その情熱の源に彼女が教えてくれた木版画という表現への熱があったことに気づかされた。というのも、神さまという演出家は、さらにその日、実に刺激的な演出をもって奇跡をもう一つプレゼントしてくれたのだ。

七年間まったく連絡が取れなかった馬川と、閉廊後待ち合わせをし、僕が大好きな居酒屋に行ったときのこと。七年間の空白を埋めるように、互いに酒を酌みかわしていたら、ある男性から「藤本さん!」と声をかけられた。よく見てみると、池田修三さんの地元、秋田県にかほ市出身で、生前の修三さんとお会いされたこともあるという、佐藤さんという男性だった。確かに奈良にお住まいだと聞いてはいたけれど、このタイミングでお会いする奇跡。そこで僕は、馬川亜弓と池田修三という二人の作家をつなぐ木版画という技法の時空を超えたつながりに気づいた。

もはや、言葉は不用だった。とにかくただこの時間を過ごせること、こんなプレゼントをいただけたことに、感謝するばかりな夜だった。


その後僕は馬川亜弓に秋田に来てもらい、修三さんの地元であるにかほ市で木版画摺りのワークショップをしてもらったり、その他、何度かお仕事をご一緒させてもらった。

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ここでこうやって馬川の話をしたのは、もちろん「待つチカラ」ということの一つの事例を、伝えたいと思ったからだ。2008年から2015年に再び彼女の作品と巡り合うまでの七年間僕は、確かに待っていたんだと思う。それを忘れていたと表現するのは、やっぱりなんだか違う。かといって、ずっと彼女のことを、彼女の作品を、思い、考えていたわけではない。多くの時間を忘れて過ごしてきた。けれど僕は、いつかこういう日が来ることを信じていたのだと思う。「待つチカラ」は「忘れるチカラ」ではなく「信じるチカラ」なのかもしれない。

実は今回、冒頭に書いたように、Re:Schoolでメンバーに「忘れるチカラ」について質問をされた次の日、僕は馬川と三年ぶりに会うことになった。そのきっかけをくれたのは、うちの編集者でマネージャーでもある、はっちこと、山口はるかだった。実は今回伝えたいことの肝はここからだ。

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2015年に馬川と再会したあの日、実ははっちも一緒に居た。馬川と僕が泣き崩れんばかりに感動していたあのとき、実は誰よりも涙を流して感動していたのが、はっちだった。しかしそれは僕と馬川の姿にではない。馬川の作品を見て、はっちは涙していた。あの頃から馬川は、天体や星空の作品を制作しはじめていて、会場には星をモチーフにした作品がたくさん飾られていた。その表現力の成長に僕はとても感動したのだけれど、はっちははっちで、僕と馬川の関係性などとは別で、作品そのものにいたく感動していた。

しかし当時のはっちは作品を購入できなかった。それは、はっちのお財布事情というより、馬川の作品を飾れるようなスペースがいまの部屋にはないということが、大きなネックだったようで、作品の前に何度も立ち止まっては、じっと作品を眺めながら強くその作品を目に焼き付けていた。僕だったら迷わず買ってしまえばいいのにと思うけれど、そこがはっちの誠実さで、いつか広い部屋に住んだらこの作品を買うのだと強く心に誓ったという。


そこからはっちにも七年という月日が流れた。

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