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自分とデザインと服装の話

自分について

こんにちは、kouです。まずは軽く自己紹介から。

自分は大学2年生で、福岡のとある大学でデザインを学んでいます。デザインといってもとても幅広いのですが、主にプロダクトデザインを中心に勉強しています。元々、建築が好きで、建築分野を目指していたのですが、よくよく考えてみると建築物の形や空間の構成、空間を構成するエレメントなど、モノを建てることよりモノをデザインすることに興味を持っていることに気づきました。

学んできた過程で、デザインを通して様々な事について考えてきたので、そのことについて書こうと思います。

デザインについて

まず、みなさん、デザインと聞いてなにを思い浮かべますか?
家具やファッションを想像する人、アーティスティックなものをデザインと想像する人、様々な人がいると思いますが、そこに正解はないと思います。
ですが、デザインを表象的なものを捉えている人は長崎にすごく多いなと感じることが多いです。というのも、昔から長崎を含め日本ではデザイン自体に価値をみいだすことがとても少ないような気がしているからです。

ここで、自分の考えを紹介すると、デザインというのは、その行為自体に価値を内包している、または価値を生み出す可能性があるものだと思っています。
このような視点で、身の回りのモノやサービスなどを、何が、どのような目的でデザインされたのかを考えてみると、もっとデザインという概念がとっつきやすく感じられると思います。まぁ、言葉だけでは難しいのでいつか詳しく説明してみようと思います。

自分のファッションについて

やっと本題です。
長崎と自分の話です。
結論から言うと、自分のファッションがどのように受け取られることが多かったか、という話です。
自分はファッションが好きで、自分自身そこに強いアイデンティティを持っています。その結果、長崎ではかなり珍しいような格好をすることが多々あったわけです。自分は、そのスタイルを自分なりにデザイナーの思いや、服の歴史などを汲み取りながら完成させてきたのですが、それに対する奇異な目を浴びたり、非難されたりすることはたくさんありました。そこに自分の好きなものを語れる場所というのはほとんど存在しなかったように思います。

これが、福岡に来てみると全く違う反応をされるのです。自分のスタイルを好きだと言ってくれて、興味をもってくれ、自分の好きなものを話せる場所というのがとても増えたような気がします。
このことを深く考えてみると、長崎は新しいものや珍しいものを排斥するような力が強いと感じます。多分、これはファッションだけに限った話じゃなくて色々な分野でも似通った話だと思います。この排斥する力というのは、一旦外から見てみるとすごくもったいないように見え、中から見ても、すごく不自由に感じてしまうものなのです。この排斥する力というのが根底にあると、新しい刺激を受けいまあるものを発展させたり、ユニークなものに触れて感性が発達し新しいものを生み出していく可能性が著しく低くなるような気がしてならないのです。

それに対し、一般的に都市と呼ばれている場所では何事も受け入れる力というのがすごく発展しているように感じます。この受け入れる力というのは、新しい刺激を受けたり、ユニークなものに触れたりして、新しいものを創っていくときに、土台となってくれるようなものだと考えています。この受け入れる力をどのように形成していくか、正解はわかりませんが、1人1人が受け入れるという考えを持つことで少しずつみんなのマインドも変わっていくのではないでしょうか。

あとがき

こんなに堅苦しい文章を書くつもりはなかったのだけれど、書いてるうちにこんな風になっちゃいました。
答え合わせができないような拙い文章になって申し訳ないですが、いつか答えを書けるようにしたいですね。でも、文章を書くってやっぱりすごいことで、物書きの人を尊敬しますね。これは自分の考えの一部なので、まぁ色々と固まっていない部分も多いです。こんな考えをする人もいるんだくらいに受け取ってくれたら幸いです。
あと、目次の作り方がわからないので誰でもいいから教えてください。



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