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夫婦喧嘩と炎上はよく似てる【創作大賞2023エッセイ部門】



昨夜、我が家で夫婦喧嘩が勃発した。きっかけは世界一どうでもいいことだったのだけど、どこまで行っても意見が揃う事のない平行線ってあるなぁと。久々にずっしりきた。互いに一歩も引かない「聞く耳を持たない合戦」だったと思う。価値観を合わせるという歩み寄りができない(したくない)ふたり。自分にも相手にもそんな瞬間があるって現実に、心の深いところからため息が出た。「こんな時ばかり要らん強さが顔を出すなぁ。」なんて。ボヤいていても変わらないまま、目を合わさない「おやすみなさい」を交わして。それでも自分の価値観を譲れない時、「どうすりゃいいんだ?」ってバリバリ寝不足。それはもう、夢の中でも重たい荷物を背負って歩きながら考えていたんだけど。今日1日かけて考えて、私なりの答えを見つけたんだ。



「意見」は自由だって。



もうそれだけだった。それが答え。
あなたと私が違うこと。もうそれは「違うまま」でいいと。何を思うかは自由なんだって。むしろ「違うまま」を愛せるっていうのが本当の愛なんだろう。そう思った。
「私と同じにして欲しい。」「俺と同じ熱量を持て」「あなたはおかしい」なんて。ハナから無理な話なんだ。そんなの押し付け以外なんでもない。どんな自分も受け止めてほしいっていう自己愛の大豊作。相手のかごを狭くするだけだ。そんな時、相手のこと、愛してないのかもしれないね。

人と人は、距離が近くて大切であるほど、同じ思いを持っていると錯覚するし。「絶対にこっちの方がいい」とか、「どうして分かってくれないの?」とか平気で言い出すんだろうな。話は違うけど、芸能人の自殺ニュースのことで賛否両論が止まらなかった炎上Twitterを見ていて、ちょうど私達に似てると思ったんだ。「私と同じ思いを持って生きよう」「その方がいいよ」という自己の押し付け大会。それ以外何でもないなって。旦那様どころか人様の意見にまで入っていく、その根性は私以上だろう。そしてそんなSNSにも私にも足りないのは、相手の「自由」を忘れていることだ。初めの話に戻る。

「意見」は自由なのだから。

SNSでも、夫婦関係でも。優しい世界を作るのであれば「違い」を「違い」のまま見過ごすことがルールなんじゃないか?って。「自由」として見過ごしてやれよ。って話です。
そうして違うことを持ってる相手に対し、何食わぬ顔をして放っておける器こそ、強さだろう。言えば「無関心」だけど、よく言えば「見守る」ってことさ。夫婦関係でも、SNSでも見守るはキーワードになりそうだよね。

それで例えば後日。パートナーが傷ついて帰ってきたとしてもだよ。そこで嫌味を言わずに「そういうこともあるよね」って抱きしめられたら、それが寄り添いなんじゃないか。それこそ愛なんじゃない?自分もそうされたい。違うを許す。違うを見守る。違うを慰める。私にはそれができなかった。そういうことだろう。

こうして1日かけて、自分に足りなかったものを見つけた。相手の発言の自由。相手の発信の自由。自分と他人の価値観の自由。見守るが一つ、私の課題となった。

無関心ではなくて、愛のある方で。

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