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笑いとは傷である


 まぁ似たような話を以前にもnoteでしたことがあるんだけど、今回は笑いに力点を置いて書いてみようと思う。
(note:優しさとは知識である|ps


 笑いとは傷そのものである。これは私が酔っ払ったらよく言っていることだ。
 人は事象に対して常に何かイメージを持っている。それは日常生活では非常に有用で、ある枠組みやパターンで何かを分類化することで、スッキリとわかりやすくそれを認識できる。
 例えば、今まで出会ってきた人間や物事に対して、「こういうタイプの見た目の人はこういう言動をとる」「こういう出来事はこういうことが原因で起こりやすい」といった一定の法則性を見つけて蓄積させることで、似た出来事に遭遇したときに「あぁこういう人いるよね」「前こうなったときはこうやって対処したな」という風に応用を効かせられるのである。


 面白い、可笑しいという感情は、このパターン化された事象に対して二つの側面から発現する。一つ目は何かの現象が『パターンから外れているとき』、二つ目は『新しく一定のパターンが発見されたとき』だ。

 一つ目はとてもわかりやすくて、ほとんどの漫才やお笑いのパターンはこれである。アホを演じるAを正常なパターン感覚のあるBがツッコむ、王道のお笑いスタイルだ。たまに両方が変なことをすることで観客の心中にツッコミを求めるタイプも存在するが、大枠は同じである。変なことをする、言っちゃいけないことを言っちゃう。パターンやイメージからの「差異が大きい」、より正確にいうなら「距離が遠い」ほど面白い。

 二つ目は漫才やお笑いというよりもより身近で、人の悪口陰口を叩くときに見かけるようなもっと汚いものである。あるパターン自体があることを認識して笑うことだ。「マジああいう人っているよね」「あの人っていっつもこうだよね笑」というような類である。パターンや法則性への気づき、それ自体が面白いのである。まぁ別に一つ目と並列関係なものではなく、根本は同じものだ。


 当たり前だが、「笑い」には必ず対象が存在する。誰か変な人がいて、その人を笑うのである。その変な人が私たちの頭の中にあるイメージやパターンから外れているから面白いのである。
 私たちはどんな瞬間も「人間」を笑っている。人を笑う、それが面白いし、だから面白い。

 少し真面目にマイノリティやマジョリティといった話にまで繋げてみようと思う。あえてずっとパターンという表現をしてきたが、言葉の範囲を限定するのであれば常識や偏見といったものもこれに含まれる。常識や偏見から外れた言動をする人が、多くの漫才で「ボケ」として演じられる。
 考えてみれば、それはマイノリティという存在に他ならない。逆に何も可笑しくない、「普通の」パターンそのものはマジョリティと呼ぶ。私たちはマイノリティを笑っている、マイノリティだから笑える。どうだろう、一気に「笑う」ことそれ自体が孕んでいる攻撃性が浮き彫りになる。

 前のnoteでも書いたことだが、最近よく言われる「人を傷つけない漫才」など存在しないと思う。そんなものは流行らないし、強い言い方をするのなら、そんなものは面白くない。最近よく言われるようなソレも、結局は誰かを傷つけている。例えそれが演じられたものでも、変な仕草、変な言葉遣い、変なコミュニケーション、それが面白いことに変わりはない。誰も傷つけていないように見えるその笑いの対象にはまだ「名前がついていない」から認識ができていないだけなのである。

 精神障害、LGBTなど、いわゆる社会的マイノリティはその名称が生まれることで配慮の対象になったが、10年前ですら「ゲイ」「ホモ」は間違いなく嘲笑するための言葉だった。「アスペ」「ガイジ」なんかも同様で、「変な人をツッコむ」ための言葉として大衆的に受け入れられていたように感じる。
 現在「人を傷つけない漫才」とされてるお笑いの登場人物も、先の例のように今その存在を認識出来ていないだけの社会的マイノリティではないという確証がどこにあるだろうか。


 そもそも「笑い」とはどういう感覚だろうか。英語には「Laugh」と「Smile」の二つの動詞が存在するがここでは前者である。面白いや可笑しいという感覚は、微笑ましいや嬉しいだとか、あるいは引き込まれるように興味深いといったものとは確実に異なる。かなり攻撃的かつ積極的で、シニカルな感覚だ。しかし世間一般的に笑うことは良いことのように捉えられている。そのこと自体にかなり人間の残虐性が垣間見えて、面白い。


 さて、「笑いが起こる空間」とはどのようなものか、あるいはどのようなものであるべきか、ということを考えてみたい。どうすれば笑いを無くさずに、かつ誰も傷つけないかという、技術的な話である。
 考えてみると私たちが笑っているとき、その時その空間で毎回誰かが傷ついているかと言われればもちろんそうではない。
  おもしろおかしい言動を笑いとして昇華するためには、笑われる対象が「その空間にいないこと」が必要条件となる。その事象について直接関係ない人が、当事者でないという感覚のある人だけが笑うことができる。
 例え当事者に当てはまっていても、その自覚がなくそこから一定の距離を置いている人は笑うことができる。私はよく自分が韓国人であることをふざけてネタにするが、これは自分が韓国人だということに何のこだわりもプライドもないから出来ることだ。それをネタにいじられてもただオモロいなと思えるのである。
 もし私が韓国人であることに無条件に誇りを持っていてそれを自分の一番のアイデンティティや強みとして捉えているのなら「韓国の人ってこうだよねー」みたいな笑いを許容することはきっと出来ないだろう。
  もし誇りに思っていたとしても、自分の当事者意識が色んな場所に分散されている場合は、たかだかそのうちの一つを笑いにされても自尊心は揺らがないから笑うことが出来る。どちらにしろその当事者意識からはある程度距離を置く、余裕を持つことが出来ているのである。

 いつだって関係のない人が笑う、関係がないから笑えるのである。当事者がいないからその空間の全員が笑うことが出来る。陰口や身内話が簡単に面白くなる理由はここにある。目の前に本人がいるときにその本人の悪口で笑うのは難しいだろうし、そこにはモラルも秩序もない。
 もちろん目の前だろうが影だろうが誰かの悪口を言うのにモラルはないし、個人的にはそれで笑いを取ってる人は、笑いに対して真摯じゃないなと感じるものがある。(これはまぁ本筋ではない)

 一般的に面白い人と評される人はこういうバランス感覚に優れている人が多い。ふざけまくっていても話の内容はTPOを弁えていたり、弁えない面白さの中にも、ある一線は越えないというような人である。範囲が小さいうちはまだ簡単だが、例えば芸人などはテレビなどの大きな舞台でそういうことをしなければならない。


 最後に笑いとコミュニケーションについて書きたい。
 人は目の前の人が何を考えているか完璧に理解することは出来ない。感情を表現するツールとして人は言葉を用いるが、それはコミュニケーションツールとしてかなり不完全だからだ。
  自分の感情をそのまま言語化すること自体とても難しいことだし、自分では知覚出来てない感情もたくさんある。
 何より、言葉にはその記号を超えた解釈が伴うし、その解釈は人によって異なっている。同じリンゴという単語からイラストのようなデフォルメされたリンゴを想起する人と幼い頃に母親が包丁で剥いてくれたリンゴをイメージする人とではリンゴの話が噛み合わないだろう。
 このように言葉という表象には一人ひとり異なる意味や概念が伴う。人間がいくら上手に言葉を使いこなしたところで、それによって相手を理解することは不可能なのである。

 しかし、だからこそ人間は相手のことを想像して慮ることができる。何を考えているのかわからないから、言葉、仕草、背景といった限られた情報から、この人は何を考えているんだろうと思考を巡らせ、思いやることが出来る。それは生物に優しさや思いやりといった感情が産まれる理由そのものだ。そういう相手との距離や隙間のようなものはとても美しい。そういうものが無いのは全くつまらない世界だ。
 そして、笑いというのはコミュニケーションを取る上で素晴らしい潤滑油として機能する。鋭い傷を笑える人は限定されるものの、それだけその限定された笑いを共有できるというのは喜びでもある。(ここでいう鋭い傷とは悪口の酷さや失礼さといったものではなく、例えば元ネタを知っているか、ハイコンテクストであるかといったものである)
 言葉というツールを鍛え、言葉に対する知識や解釈を常に学び続け、恐れずアウトプットをして、そこから学んでより研ぎ澄ましていくことが重要だ。


 笑いの本質とは傷である。それは変わらない。
 その積極的な残虐性について考えている人が少なすぎるからあまり考えずに面白いと思って発した言葉が誰かのトラウマを思い出させたり、傷つけたりしてしまう人が出るのである。それはもはや笑えないしオモロくない。

 だからこそ私たちは不可能ではあるんだけど、誰も傷つけず、誰しもがオモロいという状況を、ずっと探し続けないといけない。



2023/02/08

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