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ガス灯

 東京にいたはずだ。

 知らぬ間に迷い込んだ細い裏通りを抜けると、異国を思わせる赤レンガの住宅街に出てしまった。同じ設計のマンションが横並びでびっしりと建っている。どの窓にも灯りはついていない。
 私は長い坂の真ん中に出たようだ、怖いほど統制の取れた住宅街が下に下にと続いている。
 現代ではめっきり見なくなったガス灯がゆらゆらと揺れている、長い坂道は終わりが見えない。

 夜遅くでもなかったはずなのに通りには誰も居ない。ここはどこだろう。すこし怖くなって後ろを振り返ると、いつの間にか自分が通ってきた裏通りはなくなって、ただの赤レンガの壁になっている。

 どこか別の空間に迷い込んでしまったようだ。

  ひとけのない街でガス灯の揺らめきだけが時間の流れを知らせる。携帯電話の電源は点かない。

 とりあえずこの坂道を歩いてみよう、人のいる場所に出るかもしれない。まだ夜は深くない、坂道は急では無いが、登っていくのはなかなか骨が折れそうだ。ゆっくりとレンガ通りを下っていく。
 一列に並んだマンションは見分けが付かないほど似たつくりで、どれも6階建て、不透明なステンドグラス窓、ボロボロの階段。ここを毎日登り降りするのは大変そうだ。

 意外にも坂道はすぐに終わり、T字路を左に進むと駅のような場所に出た。小さな噴水広場の前には人だかりもある。
 しかし、やはりここは日本ではないようだ。ブロンズの髪の毛、青い瞳、通りすぎる人たちは明らかに外国人で、日本語ではない別の言語を話している。英語ではないようだが、ヨーロッパ系言語のニュアンスを感じる。
 思い切って道ゆく人に英語で「失礼ですがここはどこですか?」と聞いてみる。ブロンズ髪の女性は一瞬不思議そうな顔をしたが、英語で「ここはナポリだけど」と答えた。
 どうやら私は何かの間違いで東京からイタリアに来てしまったようだ。後のことは何もわからないが、ともかく地続きの世界であることに安堵した。

 まぁゆっくりとこの街をぶらつきながら帰る方法を探そう。こんな摩訶不思議な体験をしているのである、急いだところで何も始まらない。

 駅の近くには色々な店があった。とりあえずコンビニのような場所に入る。
 ふと目に入った新聞に書かれている文字が、明らかに英語やイタリア語のそれではない。漢字のようで漢字ではない不思議な記号とロシア語のような奇妙な記号を組み合わせた文章の見出しが見えている。値札のようなものにも何やら記号が書かれているが、よく知っているアラビア数字ではない、曲がった線の集合のようなものだ。
 感じたことのない違和感を隠せず、急いで店を飛び出す。


ーーーありえない。


 踏み切りを渡ると、今度は打って変わって東南アジアを思わせる市場が広がっていて、色んなものが剥き出しで売られている。
 並んでいるのはどれも見たことのない生き物や野菜ばかりだ。魚のような胴体の背中から鳥類の羽のようなものが生えている動物。トサカがついている鳥の頭がくっついた蛇状の生き物。果物や野菜も見たことがない色や形をしている。
 真っ黒な肌の店主が「あんた観光客かい?ーーーを買っていきなよ、安くしとくよ!」と話しかけてくる。何を買っていけと言ったのかは聞き取れない。

 脂を含んだ変な汗が背中を伝う。店と店の間の細い道を通り抜けていく、一面に広がる異形を見なかったことにして。
 市場を抜けると、屋台が並んだ飲み屋街に出た。(並べられているのはまたも知らないモノばかりだったが)客引きに目もくれず、半ば小走りで通り過ぎる。息も吸ってはいけないと本能的に口を固く縛る、瞬きもしない。ひたすらこの空間を身体が拒絶する。

 どれだけの時間が経ったのだろうか。気づけば人通りのない細い通りを歩いていた。上がり切った息を落ち着けながら通りを抜ける。
 細い裏通りを抜けると、またレンガの住宅街と同じような通りに出た。先と違うのはかろうじて通りに人がいるところだ。

 疲れたのでまた坂道を下ろうとすると、ガス灯の周りでたむろしている太った中年の女性の一人がこちらに野次を飛ばす。

「あんた、ここの人じゃないね?坂を降りるのはやめときな、そこは『貧乏街』だからね、絶対に降りちゃダメだよ、忠告したからね!」

 私は荒げた息を一旦落ち着けて、女性の忠告通り、長い坂道を降りずに登ってゆくことにした。さっき見た景色を逆再生しているような気持ちになる。明らかに私の住んでいたのとは異なる世界に来てしまった。

 ガス灯がゆらゆらと揺れている、長い坂道は終わりが見えない。



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