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~ハジマリの始まり~

2010年11月15日。
東京・渋谷文化村オーチャードホールのステージ袖には、出番を待つ男たち 20名余が、今か今かとステージ上で『島唄』を熱唱している宮沢和史さんを凝視しながら待ち構えていた。 11 月だというのに日焼けした半裸の男たちは、いずれも筋骨隆々。油性マジックでポリネシア系のタトゥーを描きあい、その姿は遠目にはおよそ日本人とは思えない、まさにポリネシア人そのものだった。

『Sandii's Super Reviews The Heart of Paradise 2010』
東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールに出演

その数か月前、現 RCCA 代表理事・高橋一聡(以下一聡)が、日本でのワールド・ミュージック普及に貢献したシンガーのSANDII(サンディー)さんに呼ばれ、こう切り出された。
『2 か月後に渋谷オーチャードホールでライブをやるんだけど、タヒチアンハカ (戦士の踊り)に男性のダンサーとして出演してくれないかしら。』 サンディーさんは、一聡の日本人離れした体形が、ステージ映えすると考えてのオファーだったようだが、一聡は、 『僕ひとり出たところでステージ映えなどたかが知れている。ラグビーの仲間を集めて集団でやれば、迫力あるステージになるはず。その演目、僕に預けてくれませんか?』 と逆オファーをして、サンディーさんに了承された。
一聡は、まずラグビーの知り合いからメンバー集めを開始した。
選考基準は身長 180 センチ以上もしくは体重 90 キロ以上。
『渋谷のオーチャードホールで 2 千人の観客の前でハカを踊らないか?』 詳しくはよくわからないけど、なんだか面白そうだ。 渋谷のオーチャードホールは、演劇やコンサートで聞いたことがある『名門』ステージ。 ラグビー経験者だから、ハカのことはニュージーランド・オールブラックスが試合前にやることは常識として知っている。40歳に近い年齢だし、現役引退して数年が経過し、チーム皆で一つの方向に向かっていくことに、なんとなく飢えを感じていた元ラガーマンが、続々と集まってきた。 ラグビー経験者のほかにも、サッカー元日本代表選手が、Sandii's HULA Studioの男性ダンサー (TANE)に合流し、20 数名の大男たちのコンバインドチームが出来上がった。

AMF JAPAN

チーム名は『AMF JAPAN』。
AMFとは、アフターマッチファンクションの略。
ラグビーの世界では、ゲームが終わると、ホームチームがビジターチームをもてなし、ビールを一杯おごり、交流を深める文化がある。 フィールドの上では殴り合いのイザコザがあったとしても、試合が終われば水に流す。まさにノー サイドの精神を象徴する文化だ。 アフターマッチファンクションでは、老若男女問わず、選手もフアンも入り混じり、『ラグビー』というキーワードだけで交流する。 日本では選手だけを壇上にあげ、エールの交換だけを形式的に行うのが一般的だったが、海外のラグビーのクラブハウスではもっとカジュアルでオープンだった。
ラグビーでニュージーランド留学の経験を持つ一聡は、本当の『アフターマッチファンクシ ョン』の文化をもっと世に知ってほしいと常々思っていたし、この文化は現代日本のコミュニケーションの方法として、とても有効なのではないかと感じていた。 チーム名に『AMF』を入れたのは、メンバーにもその文化を意識してもらい、多様性と寛容性を持ちながら、『オトナの課外活動』のモチベーションとしてもらいたいという願いも込めたかったからである。

かくして AMF JAPAN は2か月ほどの間、週3ほど夜に集まり、ハカの練習のほかに筋トレしてバルクアップし、ステージ映えするように日焼けサロンで肌を小麦色にし、『真剣に』準備をして本番当日を迎えたのである。
本番のステージは大成功。 迫力のある数分間は観客の心にインパクトをもって刺さったようだ。
ステージが終わり、打ち上げの際には、メンバーの誰もが『アフターマッチファンクション』 を楽しんだ。 真剣に取り組んだからこそ楽しめる『アフターマッチファンクション』。みんなが、その意味を噛みしめていた。

それから数か月後の 2011 年 3 月 11 日に起こった東日本大震災。 一聡と歩(村松歩・RCCA 副理事)が、被災地でのペットを軸にした支援活動を実行する 際、真っ先に『俺も手伝う!』と手を上げてくれた仲間が、『AMF JAPAN』のメンバーだ った。 同じチームでプレーしたわけでもなく、ただ『ラグビー』というキーワードだけで仲間になれるカルチャーとコミュニティの力が、社会の役に立つ瞬間だった。

宮城県宮城郡七ヶ浜町にあったロッキーの森


支援活動は総数で 40 回以上東北へ足を運ぶことになったが、そのすべてがラグビーコミュニティの力を借りたものであり、それなしでは活動を継続することは困難だった。 未曽有の大災害ではあったが、ラグビーコミュニティの持つ可能性を認識した出来事でも あったことは間違いない。

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