Teleと澤田空海理、躁と鬱の悲愴感
ふとした瞬間やYouTubeを漁っているときに、最終的に澤田空海理かTeleの楽曲に行きつくことがちょこちょこある。特に夜も更けて思考がダラダラと伸びてゆく頃に多い気がする。あの得も言われぬ感覚は何なのだろう。
澤田空海理もTeleも、悲愴感を孕んだ空気を感じる。
あの寒い冬の夜道を歩いているときのような、周囲の無関心に寒気の無関心を混ぜ合わせた悲愴感。全くもってそんなことないのに、無性に感じてしまうあの感覚を言葉に書き起こしたような。ただ、澤田空海理は鬱の悲愴感、Teleは躁の悲愴感といったイメージがある。
澤田空海理は、曲というよりも文学のような、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』のような空気感を持った自伝的詩のように思う。そのために歌詞の持つメッセージ性に直面し、盛り上がりすぎないメロディがそれを助長させている。そうして出来上がる彼の世界観には、ネガティブな重みが現れ、悲愴感をより下に押し下げる。この沈み込みを、私は鬱の悲愴感と呼んだ。
対してTeleは、歌詞の持つ悲愴性を、メロディの温かみで支えることで早春の陽だまりのようなポジティブさを感じる。ただやはり悲愴感は拭えるものではなく、そこからある種開き直ることで今までとは別ベクトルの元気を携えた状態を表したような。もしくはそこまで行けていない人に、「そんなもんでいいじゃんか」と語りかけているかのような。いずれにしても、ポジティブな軽さがあるように思える。この宙ぶらりんな心持ちを、私は躁の悲愴感と呼んだ。
どうあがいても必ず訪れてしまう心のマイナス局面を、どう乗り切るかは非常に難しい。その人その人に心の特性があり、どういう曲線でもって平常時に戻るかは下手するとその時その時ですら変わる可能性もある。ただ、全てに共通することは、無理に平常に戻そうとする必要はないということだろう。楽しめとまでは言わないが、沈んでいる感覚に正対できるようになれれば、幾分か負担は減るのではないかと思う。普段と違うその時を、自身を卑下することなく観察し、特段打開することなく座談することができれば、それもまた自己の発見だ。
僕の生活の一部になります。