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"アート"と"アート"

最近アートについて考えることが多い。絵だけじゃなくて、音だったり立体物だったり、人が作り出す表現についてよく考えている。

宮下奈都さんの『羊と鋼の森』の中で、ラの音のピッチが昔とは違うという話が出てくる。多分音楽をやっている人にとっては常識なのかもしれないけど、せいぜいJ-POPとかROCKとかそういうのばかり聞いてきた僕にとっては何とも不思議な話だった。
すべての基準であるはずのラの音が、時代によって移り変わっていく。確かに不変なものはあまりないこの世の中で、ラの音が移り変わるのはごく自然のことなのかもしれないけど、基準だからという理由1つで不変であると知らぬ間に決めつけていた。日本語が時代によって発音が大きく異なるように、音だって変わっていて不思議はないのだ。ステレオタイプに囚われてなるものかと常に考えてきていたのに、見事に囚われていたことに悲しくなった。

くだらない当たり前を設定していたことを恥じながら、音が変わるならその設計図はどうなのだろうと考えた。考えたというより『羊と鋼の森』に書かれていたことに確かになぁと思っただけな気もするが、細かいことは気にせずにいく。
音の設計図というのは、楽譜のこと。当時の作曲家たちが作った楽譜に込められた思いを正確に表現するのは、とても難しいことを知っている。プロのアーティストでさえ苦心するこの作業で、もし完璧と言える表現ができたとして、果たしてそれは本当に作曲家が込めた思いなのだろうか。基準が異なることで大幅に変わってしまうのではないか。
スメタナが故郷への思いを込めて作った『モルダウ』を現代の基準で演奏した時に、はたしてスメタナが込めた思いを正しく表現できるのだろうか。スメタナがイメージしたブルタバ川の流れを、正しく魅せられているのだろうか。ドヴォルザークがアメリカという新世界から故郷のボヘミアに向けて作った『交響曲第九番』に込められた思いは正しく表現できるのだろうか。ドヴォルザークの目指したアレグロ・コン・フォーコと今のアレグロ・コン・フォーコは同じだろうか。そう考えてしまった。

少し考えてからふと思った。アートとはそういうことではないのではないか。アーティストが創りだしたアートはもちろん、それを見たときに感じたこともまたアートなのではないか。アートというものの自由さを忘れていたのではないか。そんな気がした。
アートは作り手だけでは成り立たないことは知っている。作り手がいて、それを見る人がいる。それぞれにアートがあり、一つの作品でも違うアートが生まれる。そういうものだろう。そう考えたときに、先ほど考えていたことは全くの無意味なことに気が付いた。

スメタナの目指したブルタバ川の流れや、ドヴォルザークが心に秘めていた燃えるような思いがアートであり、現代の音が表現するものもまたアートである。作り手が目指した表現と、今の表現が違ったとしても、それをアートとして認める寛大さがアートの神髄なのだろう。アートを尊敬していたつもりが、アートを舐めていたことを思い知らされてしまった。
今日はまさに泣き面に蜂の如くぶん殴られた一日だったが、殴られるほどの価値に出会えて満足な一日だった。

僕の生活の一部になります。