【エッセイ】旅情、季節、雨。あるいはそれらの認識の誤謬について。

 旅情だとか、季節感だと思っていたものが、実はごく身近な条件の有る無しによる変化に過ぎなかったという体験を、ここ数年で数回ほどした。

 たとえば、早朝の町の空気。普段住んでいる街がまるで温泉街のように感じられた朝があった。
 皮肉にもこれは「コロナ禍」のおかげなのだが、梅雨入りも間近に迫った時期のある朝、ふと変な時間(日の出前)に目覚めて、二度寝もできなさそうだったので、ベランダに面した窓を開けたら、都市部近郊に位置するベッドタウンであるはずの街がしんと静まりかえって、鳥たちの鳴き交わす声がやけに目立っていた。
 それは去年の同じ頃の早朝の様子とはどこか違っていて、まるでどこぞの温泉街にふらりと訪れたときの、一泊目の夜は早めに寝て、次の日の朝は早めに目覚め、ちょっとそこらへんを散歩しようかなと珍しく思い立って、車も通らない静かな家並みや風景を鑑賞しながら爽やかな朝風を吸う、そんな体験をしているかのような感覚だった(植物や、土、温泉水などの匂いはもちろんしないが)。
 普段住んでいる街で唐突にそんな気持ちになるとは奇妙な気がしたが、原因はすぐに思い当った。コロナ禍で物流や人の移動が減り、その時間帯の車の走行音が消えたのだ。そのぶん、空間は鳥たちの声で満たされる。スズメやヒヨドリ、カラスなど、種類こそありふれているが、彼らの朝のさえずり合戦の声は昼間に聞くものとは節回しが違う。
 結局のところ、旅行気分を盛り上げてくれる、あの朝の爽やかさの正体は単なる「静寂」でしかなかったかもしれないのだ。コロナ禍以前であれば、確かに旅先ならではの特徴だった。しかし本質的には違った可能性がある。この気づきに、まるで脳がストレッチをしているような感覚を覚えた。ついでにそれが温泉街である必然性もどこにもない。単に、自分がよく温泉地を旅先として選んでいただけのことだ。

 季節それぞれの空気の匂いについても、よく似た勘違いをしていたように思う。
 秋の空気と言えばどんな匂いだろう。からっとした、熟した落ち葉のような匂い。あるいはヨーロッパのレンガ造りの街並みを思わせる、ちょっと文化的な冷たい香り。春の空気について言えば、草の種が今にも萌え出んとする肥沃な土のような匂いだろうか。そう、落ち葉や土の匂いだと思っていた。でも、違うのかもしれない。
 近頃は四季と梅雨の現象がどうにも混線気味かつ極端で、春もたけなわと思われてから冷え込んで秋晴れになったり、冬に晩春のような暑さがやってきたりするが、その都度、つまり部屋のドアを開けて一歩外に出るたびに、季節外れな「秋の匂い」や「春の匂い」が空間を満たしていることに気付く。
 天気図を見るとわかるように、このような気候の変化は上空の大きな気団の移動によってもたらされるものだから、たとえば仮説として、きわめて巨大な空気のかたまりがごそっと移動してきた結果、空気が丸ごと入れ変わって、その気団特有の匂いがしているだけという可能性がある。だからこそ、まだ春が来ておらず微生物たちが眠っているはずの冬でも「春の肥沃な土の香り」がしたし、落ち葉の季節でなくても「落ち葉の香り」がしたのではないだろうか。実際のデータなどは把握していないので、単なる私見に過ぎないが。

 こういう、何かと何かの関連付けが実は早とちりだったというケースはよくある。たとえば、「雨の匂い」。濡れたアスファルトが発する匂いだと昔は思っていたが、あれはペトリコールと言って、草の種子が纏っている油分が道路に溶け出したものの匂いなのだそうだ。アスファルトが濡れた結果として発される匂いであることには相違ないが、濡れたアスファルトそのものが発する匂いではない。言ってしまえば誤謬である。
 どちらかというと、私はこういう誤謬に気付いた時は嬉しくなる。以前よりも目の前の世界を深く理解できた気分になるし、今までの自分の世界観が壊れて、新たな何かが育つ苗床を用意できたような気分になるからだ。どれだけ些細なことでもそうで、ただし、その嬉しさはおそらく何らかの優越感から来ているものだから、それを自覚すると一転して自分が情けなくなる。頭が良くなったかのように振る舞っているが、べつに何も賢くなってはいない。実体のない賢さに酔うほど惨めで気持ち悪いことはない。

 さらに、このような誤謬をほじくり過ぎると他人との意思疎通の質が貧しくなると思うこともよくある。べつにそういう人を見たことがあるわけではなく、どちらかというと自分の中でたまにそんな気分が頭をもたげるから自戒のために言うのであるが、たとえば「雨の匂い」や「アスファルトの匂い」という言い回しは、それ自体があの香りを指す数少ない貴重な表現なのであるから、ここで「実態がそうでないから」という理由でこれらの表現を禁じたり、これらの表現を使用する人を生暖かい目で見たりするのは非常に勿体なく貧しいことだと感じるのだ。
 文芸や詩歌の世界に親しんでいる人なら、ピンと来ることもあると思う。たとえば俳諧の季語に「ミミズ鳴く」という季語がある。実際の鳴き声の主はオケラだそうだが、それでもやはり、夏の夜の空気感を表すための言葉として使われ続けている(季語としては秋)。なんなら、「地中から出ずる声だ」というような、場所感覚を強める働きを見込まれているフシすらある。べつに好み次第で「ケラ鳴く」にしたっていいのだ。いいのだが、「ミミズ鳴く」にしか出せない語感というものがある。そしてそれは「雨の匂い」という表現とも通じるところがあるように思う。季節ごとの空気の匂いというのも同類だし、旅先の風情というのも、きっとそういうことなのだろう。

 結局のところ、誤謬であろうと事実であろうと、一個人が目の前の現実に対してどういう意味付けをするかという話でしかないのかもしれない。当然ながら、事実の確認は大事だ。本当にミミズが鳴いているのだと強硬に主張することは、明確な誤りであり、話題によっては罪ですらある。しかし人が人として生きるとき、その内面世界は、きっと事実だけによって構築されるものではない。少しの空想、連想、ときには妄想を、目の前の世界としつこくしつこく練り合わせながら、私たちはそれを「現実」と呼んで生きている。
 まるで天動説だ。なんという無責任な存在。とはいえ、これはべつに人間に限ったことではなく、たとえば金魚が飼い主の手を見ただけで餌と思って寄ってくるのも、金魚が目の前の現実に事実と違う意味を付与した証左なのだから、要するに生き物とはそういう無責任でお気楽な存在なのだと最近は思うようになっている。そのせいで発生している不幸も数知れないが、幸せもそのぶんあるのだろう。もちろん、その幸不幸は各人が意味付けした結果に過ぎないということになってしまうが。

 最近、少し経済活動が再開されだしたこともあって、早朝でもあのときよりは車の音が聞こえてくるようになってきた。鳥の声がほんの少し遠くなったように思う。いずれまた、確かな静寂を楽しむために遠方に行かざるを得なくなる日が来るのだろう。