見出し画像

不変の音楽

アメリカに拠点を移し3年が経とうとしている。
生活はほとんど慣れたのだが、未だに慣れないことがある。
その一つが単位である。


この文章を書いている現在の気温は華氏79度。華氏温度から32引いた値を1.8で割った値が摂氏温度なので、計算すると摂氏26度。
頭の中で計算するのは大変だと思っていた頃、「30を引いてその後に2で割れば、おおまかにわかるよ」と友人に教わった。
摂氏温度で育ってきた私は、それでも毎度計算するのは面倒だなと思ってしまう。

3度目の引越し先が決まり、家具を購入するために買った巻尺はインチ・フィート表記だった。
1インチは2.54cmで、12インチで1フィート、3フィートで1ヤードとなる。
日本において日常生活では一般的にミリメートルが最小の距離・長さの単位だが、アメリカでは1/8インチが最小の単位である。1/8インチは約3mm。
建築家の友人が「だからアメリカの建築施工は日本の3倍雑なんだ」と笑いながら言っていたが、並行が取れていない床、たまに開かなくなる立て付けの悪い扉のある家に暮らすと日々実感するのである。

1フィートは30.48cmで、footと表記することからわかる通り足のサイズに由来しているのだが、基準となった人の足は中々の大男だったのだなと想像する。
なぜインチより小さい単位がないのか、インチとフィートの間では12進法であるのにフィートとヤードの間では3進法なのか、「フィートの大男」はどんな顔をしているのか、日々煮え切らない気分でいた。


先日料理をするためにスーパーで豚肉を買った。レシピには必要量が200gと記載されている。
ショーケースに並べられた豚肉にはポンドあたりの値札が置かれており、1ポンド453.59グラムであるから大体1/2ポンドくらいかなと計算し、店員にそれを伝える。
豚肉のついでに購入した牛乳やオレンジジュースなど、液体の容量はオンスで記載されるが、1オンスは1ポンドの1/16である。何故か16進法である。


日本人の私にとってこれらの不条理は耐え難い。
ある日これらの単位の由来を調べてみることにした。
すると一つの共通点が浮かんだ。


画像1


華氏温度はドイツの物理学者、ガブリエル・ファーレンハイトが1724年に提唱したことから始まる。
単位の決定に至るにはいくつかの説があるが、観測できる最も低い気温を0度、彼自身の体温を100度としたという説が有力である。
測定された気温は-17.8度、彼の体温は37度。なかなかに寒い土地で住んでいた彼は微熱だったのだろうか。

フィートは時代によって細かな変更がなされているが、紀元前2575年のメソポタミア地方の一都市の支配者の足が起源となっているらしい。
インチは足の親指の爪の幅に由来するが、フィートとの整合性をとるため、1/12フィートを近似値として決定された。

同じくメソポタミア地方で、人間一人が一日に消費するパンを作るために必要な製粉の量がポンドである。
フィートの12進法に倣い、もともと1オンスは1/12ポンドとしていたが、変更を重ね現在は1ポンドを16オンスとしている。

これらの共通点は数べて人である。

ある人の足の大きさ、ある人の体温、ある人々が食べるパンの量によって決められてきた。そして時代によって、あるいは政治によって調整され続けてきた。


一方日本で慣れ親しんでいる摂氏温度、メートル、グラムはどうか。

1センチメートルの立方体に収まる水の質量が1グラムであり、1ミリリットルと言い換えることもできる。
ミリ・センチ・キロと接頭詞を付け加えることで倍量単位として数字を扱いやすくすることができる。
温度に関しても、水の氷点が0度、沸点が100度である。

これらの単位の基準はすべて水である。
自然科学の根幹となるものであり、不変の概念であろう。


生命にとって全ての源は水と言える。
太古の昔、水中の化学反応によってできた有機物質があらゆる生命の起源となった。
水は私たち人間の体を構成する物質で一番大きな比重を占めるものであり、水がある土地に人類は文明を築いてきた。

画像2

Komar & Melamid, America’s Most Wanted, 1994. Photo by D. James Dee. Courtesy of the artists and Ronald Feldman Gallery, New York.
出展 : This Is America’s Most Wanted Painting


我々が意識しようとしまいと、たとえ滅びようとも川は流れ、海が蒸発し、雲は積もり、雨が降り、水は循環する。



一方音楽は人類がいて、初めて成立するものである。

西洋音楽においては古代ギリシャの数学者ピタゴラスが発見した音律が根幹になっているが、数学的な根拠と芸術としての音楽には大きな隔たりがある。ドレミはドレミ以上でも以下でもないのだ。

物理現象としての音と音楽の間には無限のグラデーションが広がっているが、あえて定義づけると「人間が作るロジックの上に成り立つかどうか」と言えるだろう。
文明によって音を並べるロジックと楽器は変化し、今も絶えず進化し続けている。

画像3


私は音楽を作り続けていくうちに「不変的な音楽は存在するのか」と考えるようになった。

それはおそらくないだろう。

しかし「不変」とはなんとも魅惑的なものである。
人類は死という概念を発明してから、死を恐れ不死を求めてきた。
エジプトのピラミッドの建設も、唯一神を信仰する宗教も、死を恐れ不死を求めるが故の不変への憧れである。

例え不変的な音楽が存在しなかったとしても、音楽を探究するためには不変という軸の設定は有効なものと思える。
私は不変の象徴としての水をモチーフに作品を作るようになった。


2019年に発表した"shizuku #1"は、水滴の音を雅楽の理論と音律を元に数学的に記述した作品である。


笙の「十」という6声の和音の各声部の周波数の定次倍音から水滴音のリズムを導き、物理モデルでシミュレーションした金属のレゾナンスを加え音程を与えている。
6つの異なる音程の水琴窟を使った音楽、といえばわかりやすいだろうか。

不変への憧れというモチベーションで作曲したこの作品は、皮肉にも雅楽や笙という文明の結晶と抽象化できない個々の水滴音の美しさが顕わになった。
この気付きは抽象化できない古来からの日本の美意識へと接続するのである。

以降、私は水に取り憑かれている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?