神を残酷だと思ったことのない者はひとりもいない
でた! 打ち消しの打ち消し・・・
コースは、というかイエスは、このような周りくどい言い回しがやたらと多く、さらっと読んだだけではすんなり頭の中に入ってこないことがなくはない(ちょっと使い方違うか)。要するに、みんな一度は神が残酷だと思ったことがある。ということです。
この物質の世界が神というものの創造だという情報を受け入れていた時、神や仏への不信感を強めずにはいられない絶望的な出来事に遭遇し、それでも何かにすがるしかなく、天を仰ぎ『神さま!!』と心の中で何度も叫びながら嗚咽して泣き崩れた。
しかし神はわたしの前に現れなかった。
わたし達はこの世に見放されたと思った。
まだあの時の状況が鮮明に思い出される。10年ほど前の事だ。
どうせ神や仏は人間が苦しんだり悲しんだりすることをなんとも思わないのだろう。
所詮、この世の悲しみなど、神や仏にとっては取るに足らない現象なのだろう。
人間に修行をさせ、神は高みの見物でもしているのだろうか。
いや、一元性とやらの世界では、善悪の概念がなく、神は人がこんなにも苦しんでいることは分からないのかもしれない。
救いを求めても手は差し伸べられなかった事は、当時のわたしを恐ろしく卑屈にさせた。
わたしにとって神はこの世にいないと結論付け、何年か経ちレイキの世界を知る事になる。
そこには大宇宙という全てを創造し包括する大きな意識があり、私たち人間は小宇宙と呼ばれ、その大宇宙と同じ性質で出来ていると言う。
全てを大宇宙にゆだね、大宇宙に漂う完璧なレイキエネルギーと、生きていく中で少しくすんでくる人間の体内レイキを響合わせ(共振共鳴させ)輝かせる。それがいわゆるヒーリングである。
そんなレイキがわたしのベースにある。
しかし漠然と響き合っていない事が苦しみの原因と言うレイキより、はっきりと分離と言う原因を示しているコースの概念がとても明瞭で、わたし自身その分離を体感しているのではないかと思えることが、その概念を受け入れるに相当した。そして、そこに救いもあったから今はコースを学んでいる。
神はこの物質の世界を創られてはいなかった。
この事実を知った時、今まで抱いていた疑念が晴れていった。
神を残酷だと思うのは、人間の思い違いに過ぎない。
この世界を創ったのは、私たち人間なのだから。
思ったのだけど、あんな時やっぱりキリスト教はドラマチックだよね。「神さま!」とは叫びやすいけど、「仏さま!」とは最近は日本人でもなかなか言わない。
でもクリスマスの雰囲気は大好きだし、芸術をたくさん生み出した世界観は凄いと思う。絵画にしてもクラシックの音楽にしても教会を筆頭に数々の建物も、キリスト教の文化が無ければここまで素晴らしいものは残っていなかったかもしれない。宗教はそう言う面でとても芸術や文化に貢献している。偶像崇拝は本来邪道ですけど。
クリスマスの雰囲気は好きだけど、実は当日は好きではない。お正月も誕生日も特別な日は好きではない。なぜか幸せであらねばならないという強迫的なものを感じるから。