這いずる苦しみから生まれた創作に求めることは、共鳴と救済であり、消費では無かった


この記事は、再録です。
初出︰2022年11月13日(個人サイト)



この記事は、あまりにも明け透けに本音のままに書いています。
ですので、これを読むことで読み手の方に不快感を抱かせるばかりか、
「猫嶋という絵描き・人間が嫌いになる」かもしれません。

また、ただただやり場のない怒りをぶつけているために、主張に矛盾も多々あるとおもわれます。

読まれる際は、どうぞその辺りをご了承頂ければと思います。
それでは、あるひとりの絵描きの〖独白〗をどうぞ。






エドワード・ファーロング、ビョルン・アンドレセン。私はこのふたりが数いる美少年の中でとくに好きだ。


美少年はこの世には思いのほか沢山いる。
けれど、その飾らないアンニュイな眼差しと、陰を内包した何処か目の前ではない遠くを焦がれるように見つめているような、
そんな存在自体が儚く美しい人はそこまでの数は居ないような気がしている。
少なくとも私が感知できる範囲では。

単に絶世の美少年だから、というだけではなくて、その奥にある『常に彼らとともにある、自身の存在の不安定さ、愛の欠如による孤独感』。
そんな湿り気を多く含んだ霧が、儚さと美しさをより一層際立たせていると感じるのだ。


霧と、陰ったノイズでコーティングされた純粋性。
私は、それに強く強く惹かれている。




ミステリアスで厭世的・アンニュイな雰囲気を自分が好むのは、どうやら生きる上での困難が多い己の人生、に由来しているのだろう。

そして、人は苦しみや困難が多いほど、深みのある人格となる。それが嫌味にも、彼らの魅力をより一層強めていると感じる。


-創作でも、私はそういうものが好きだ。
闇の中に浮かぶ一筋の光、煌めく光、儚く消えてしまいそうな蝋燭のような揺らぎ。

闇によっていっそう色濃くなる、浮き出す感情の美しさ。好きになる作品も、美しい闇が色濃いものばかりだったように思う。
そこにはいつも痛みを感じることが出来た。

私は痛みを感じている方が作った創作を愛している。



闇と共鳴し合うのが、酷く心地よかった。痛みを非言語情報で共有できることに恍惚を感じていた。

……ならば、近い苦しみを抱いている人間と、理解し合いたいのか?


苦しみ部分に共鳴し合うことが一番の目的で、それが果たされないから絵を公開しても苦しいのだろうか。
痛みをくみ取って貰うことで、私は心を癒したいのか。




暗い絵を描くとフォローを外される。私の絵はキャラの顔面がわりと良く、パッと見は明るい雰囲気なので、それに惹かれた人は去っていく。
或いはそういった絵だけは反応しない。


闇と同じぐらい性に関する衝動と表現欲求も強いので、そちらにだけ惹かれて引っかかってくる人間には私は興味が無い。

興味が無いどころか、嫌悪感の塊だ。メタメタに刺してしまいたくなる。



美しさと闇と、性衝動は自分にとっては表裏一体だ。ひとつに繋がっている。地続きだ。だからいずれしか求めないならいっそ見て欲しくない。とくに痛みを汲み取ってくれない人間はお呼びじゃない。それが本音だ。


以前、相互の方に、自分の苦しみを形にした絵を「このシチュって萌えますよね!エロいですね」といった内容のコメントをされたことがある。
私はその時、胃の煮えくり返るような怒り...…強烈な怒りを抱いたことを覚えている。



確かそれは、Adamsがリストカットをして浴室に裸体で倒れている絵だった。
Adamsは、私の心の闇を表現するのにとても心地よく、波長が合う媒体だ。鬱の時期は彼ばかり描きたくなる。

ところがその人にとっては萌えなのだ。記号的に性的なものを愛でる対象とでも言おうか。



私のこの傷から疼く痛みや苦しみは娯楽じゃない。そんな人間に絵を見て欲しくない。消費されたくない。


消費されたくない!!!!!!




逆に、そういう人間にとってはお呼びじゃないんだ。私の苦しみを込めた絵なんてものは。


絵を見られても、私はちっとも救われた気にならない。むしろ搾取された気さえする。
わかっている、私が汲み取ってもらいづらい表現しか出来ていないのだということは。


萌えという大きすぎるフックに引っ張られて、私は己の闇を表現し続けることから逃げていた。
承認という手段で自分の心の穴を埋めるほうを優先させた。そして最終的にすべてに絶望して、すべてを消して籠った。



とくに闇の色濃い過去の絵はすべて下げてしまった。万人に受け入れられそうな、当たり障りないものだけ残した。それがいまのここだ。
(※記事の執筆時点では、版権や成人向けをすべて下げていた)

デlジモン、とくに太l一関連もひとつ残らず下げた。デlジモンの暗がりどころかデlジモンにさえ関心が無い人間に、一時のおかずとして消費されるのに耐えられなかった。



デlジモンに関心がある人は、そのホビアニという性質から子どもっぽいものを好む層が割と多かった。
だから幼稚さがコンプレックスの私は、そんな自分を刺激されるようでそちらも毛嫌いしていた。
シlョタという属性に惹かれて「シlョタ絵」として見られているのも怒りの対象だった。


属性萌えとしての絵は見る人を選ばないので、あまり絵に普段触れない人や、物語に興味がない人、絵の意味合いを考えたりしない人でも楽しめる。

私はそういった人を馬鹿にし嫌悪しているように見えて、無知で薄っぺらだった過去の私を否定し続けているのだろうと思う。
そんな理念とかけ離れすぎた自分を、いまだ受け入れられていない。



絵を深堀りしてくれる人、それに足る能力を持っていてそれを好む人を求めているのも、自分がそうでありたいからだ。
それに酷く執着しているからなんだろう。



版権という枠によって自分の表現したいものに制限がかかるのも、原作者に失礼な振る舞いをしてしまっている自分にも耐えられなかった。
自分の性癖は気持ち悪い。本当に気持ち悪い。でも好きなんだ。呪いだ、こんなのはもう。


太l一を愛している。藤l田淑l子さんが演じたあの八l神太l一を愛している。でも、原作者はきっとこんな形の愛は望んじゃいない。だから公開するのがつらい。
でも太l一を愛している。だから描くことをやめられない。




自分を理解されたかった。絵を見てもらってなんとか穴埋めしていた。表現したいものもたかがしれていた。
でもいまは、もはやそれじゃあ駄目なんだ。




いまの私は、私の中にずっとあるまだ形の分からないものを、外に出したいと願っている。だから創作をやめられずにいる。
闇を表現することも諦められないまま、機会を伺っている。


苦しいんだ。苦しくて苦しくて、だから降りてしまいたい。でも降りたら私の苦しみを伝える手段が無くなってしまう。
続けてきたことが無駄になってしまう。絵以上に適した手段も今のところは見つかっていない。


汲み取っておくれよ、誰か。私の苦しみを。痛みを。本当に伝えたくて仕方ないものを。

見た目だけ華やかで愛らしいものなどに、私は価値を感じない。そういうものを私は、心から嫌い憎んでさえいる。そういうものを好む人間も嫌いだ。
なぜなら、過去の私がそういった薄っぺらいものを好む人間だったからだ。




私には何が表現出来るのだろう。難解なものなんて作れない。
結局手探りで、身の丈にあった、自分の中にある何かを掘り続けるしかない。
YOASOBIの群青で今日も泣いてしまう。

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