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彼女と僕は交わらない【ノトコレver】

「先にお飲み物お伺いしましょうか」

 お冷を置きながら、そう尋ねてきた店員さんに、ナズナは「グラスビール」と答え、僕はウーロン茶を注文した。車の運転があるので、アルコールは頼めない。

 以前の彼女なら、僕がいる時は遠慮して、アルコールを頼まなかった。本当はビールが飲みたいんだ、ということを、ある時、兄から聞いて知った。
 今の彼女は遠慮なんかしない。僕にはそれが嬉しい。

 習慣になっている毎朝のコーヒーと、週に二回の公園への散歩だけは、まだ辛うじて残っているものの、予定を立てて行動することは、ほぼできなくなった。代わりに、突発的な思いつきで行動することが増えた。
 ここに来たのもそうだった。今日の午後は、レンタルした映画を一緒に観ることになっていたのに、突然、この店に行きたいと言い出したのだ。


 ナズナは、窓の外に目を向けて、金色に染まったイチョウの木を眺めている。
 夕暮れに差しかかる時刻の日差しは蜂蜜の色合いを帯びて、彼女の白いカーディガンを柔らかく染めあげた。道ゆく人にイチョウの葉が降り注いで、景色全体が蜂蜜のなかに浸かっているかのようだった。少しずつ、でも確実に、空気が冷たくなり、日差しが短くなって、冬に向かっているのを肌で感じる。

「この季節が一番、好きだな。ちょっと肌寒いくらいが気持ちいいよね」
 彼女はそういうと、テーブルに広げたメニューの方に顔を向けた。熱心に見つめて、僅かに首を傾げる。
「うーん、アップルパイのバニラアイス載せ……惹かれるかも」
 それを聞いて僕は思わず「ビール飲むのに、甘いもの?」と言った。とたんにナズナは顔を上げた。表情が一瞬、空白になり、瞳が頼りなく揺れて僕の目をとらえた。片手をのろのろと口元に押し当てる。
「わたし、なんかマズイこと言っちゃった?」
 僕は慌てた。
「いや、ぜんぜん問題ないよ。ビールに合うのはしょっぱいもの、って思い込みがあったんだけど、個人の好みだから。ナズナはビールに甘いもの派なんだね」
 ナズナはホッとしたように表情をゆるめた。
「うん、私いつもそうじゃん……あれっそうだっけ。どうだったかな」
 彼女は不安げに眉をひそめた。僕は内心の狼狽を押し隠して笑ってみせ、メニューを指差して声をはり上げた。
「ねえこれ! 美味しそう。しらすピザにしようかな。ピザでトマトソース無いのこれだけみたいだし。ナズナもちょっと食べない?」
 ナズナはパッと笑顔になって、ふふふ、と小さく声に出して笑う。
「トマトとチーズの組み合わせが美味しいのになあー。トモくん前に頼んだのも、これだったよね」
 僕はどきりとした。そう、何度かここに来たらしいことは、兄から聞いていた。店の存在は覚えていても、細かい記憶は消えているだろうとタカを括っていたのだ。僕は、さりげなさを装って訊いてみた。
「そうだっけ? 前に来た時は、ナズナ、なに頼んだの」
「んー……わかんない」
 ナズナは、あやふやな風情であたりを見回すと目を伏せて、寂しそうに微笑んだ。
「ごめんねえ、わたし、すぐ忘れるからー」
 僕はナズナの手を軽く握ると、そっと呼びかけた。
「ナズナ、僕を見て」
 彼女は大義そうに視線を持ち上げて、ようやく僕と目を合わせる。僕は笑いかけた。「大丈夫、心配すること何もないよ。ねえ見て、紅葉が綺麗。ほんとうに今の季節が、一年でいちばん綺麗だよね」
 ナズナははかない笑みを浮かべた。そして窓の外に顔を向けると頬杖をつき、金色の世界で舞い散る葉を、ものうげに目で追った。
 健康そうだった肌は青白くなり、栗色だった髪の毛は黒色に戻っている。僕は彼女の姿を貪るように見つめる。この幸せな時間を覚えておきたかった。こうしている間にも、毎分、毎秒、彼女の脳の記憶領域は侵食されて、失われている。


 ナズナが若年性アルツハイマーを発症したのは、ちょうど二年前になる。そして、去年、兄貴が事故で死んだ。

 知らせを受けて病院に駆けつけた僕は、手術室の扉の前で、看護師の口から兄の伝言を聞いた。朦朧とした意識の中でうわごとのように繰り返していたと。すがりつくように、何度も何度も。

「ナズナを、頼む……オトヤ……お前が俺の、代わりに……なあ頼む……」

 僕のなかの兄への思慕は、轟々と渦巻く黒い嵐に吹き飛ばされ、かき消された。

 兄貴。

 知ってたんだ僕の気持ちを。

 汚泥のようにどろどろした嫉妬の沼の底を這いずって、それを必死に隠そうとしていた僕を横目に、彼女との蜜月を味わっていたのか。何食わぬ顔をして……許せない。その上で今になって縋ろうと?ふざけるな、僕は──

 ──いや。認めよう。

 僕は歓喜していた。血を分けた兄弟が死ぬことを。

 最大の障害が消えた。どんなことをしても、彼女の心を僕に向けさせる。

 その頃、病気の発覚で精神的に不安定になり、自傷行為を繰り返していたナズナに、夫の死を知らせることはリスクが高すぎた。兄の葬式は両親が喪主になり、妻のナズナには告げられなかった。

 その後、僕はナズナの両親を説得し、彼らと協力して、兄は長期の出張でしばらく留守になるから、代わりに僕がナズナの面倒をみる、という話をでっち上げ、彼女に話して聞かせた。そうやって兄貴の家に入り込んだ。

 夫の不在を寂しがる彼女が、僕を「トモくん」と呼び出すまで、それほどかからなかった。トモヒコは兄貴の名前だ。僕と兄貴は背格好が似ていたし、何より声が似ているとよく言われていたから。それに、日常の出来事が記憶からこぼれ落ち、日増しに混乱を深めてゆくナズナが、心の拠り所を求めることはわかっていた。
 そう、僕は兄貴と入れ替わった。長いあいだ密かに望み続けたナズナの隣を、拍子抜けするほどあっさりと、手に入れた。

 介護を理由に、会社の仕事をリモートワークに切り替えて、毎日、家で彼女と過ごす。病院への送り迎えをし、家事をしながら薬と生活を管理し、夫婦として一緒に出かけて、買い物をして、食事を作る。
 そして夜になると彼女と触れ合い、身体を重ねる。ずっと夢見ていた幸せ。

 ベッドの中、隣で眠る彼女の髪をもてあそびながら、ときどき思う。もしかして……

(もしかして、ナズナは忘れたふりをしているだけで、ほんとうは僕だとわかっているんじゃないか)
(もしかして、次にナズナが目覚めた時、僕を見て微笑み『オトヤさん』と呼びかけるんじゃないか)

 朝が来るたびに、うっすら目を開けたナズナを見つめて……

 どうしようもなく切望している自分のこころをどうしたらいいかわからないんだほんとうは。
 なあ兄貴、まだ彼女の心はあんたのもんなのか。僕の心は死ぬまで彼女の心と繋がることはないのか。ねえナズナ、一度でいいから、

──僕の 名前を 呼んで


「トモくん」

 微笑む彼女の呼びかけに、僕は悲しく微笑み返す。
 僕らは傍目には、幸せなカップルに見えるんだろうな。

 テーブルに歩み寄って来た店員さんは、飲み物をテーブルに置くと、どこにでもいる平凡な夫婦を見る目で僕らを見渡して、丁寧に言った。

「ご注文はいかがなさいますか」


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