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寄席に来たかと思った大阪のお坊さんの法要

兄の3回忌法要に行ってきた。

私は、天理教の家に生まれ育ったために、そもそも仏教に関して非常に無知である上に、同じ日本でも冠婚葬祭の風習などは、ところ変わればという面があり、地元以外では戸惑う事が多い。

兄は大学卒業後はずっと大阪で生活してきた人なので、生まれ育った家の風習ではなく、大阪の風習、大阪の家族の思うようにやってくれれば良いと葬儀の時から伝えて来た。
当たり前のことだけれど、この期に及んで親兄妹に気を使ってくれなくて全然大丈夫だ。

2年前のお通夜の時に来てくれていたお坊さんが
「私は明日から抗がん剤治療に入るので葬儀には来られない。」
と、衝撃的な内容の話をしていたのを覚えていた。

葬儀、四十九日と、若いお坊さんが来てくれて
特に四十九日の時にしてくれた話は、まだこちらの心の傷も生々しい時期だったこともあり、涙ながらに聞いていた。

3回忌法要にはどのお坊さんが来てくれるのだろうか。
ふと「あの時のお坊さん、まだ生きてくれているだろうか」と思った。

兄の死因となった病気と同じだったと思う。
2年経って今でも闘病されているのだろうか、、、


今回の法要は兄の自宅で行われたため
開始予定時刻の30分ほど前にバイクに乗ってやってきたのは
「あの」お坊さんだった。

良かった。生きてる!

到着早々にみんなの前にゆっくり座り、身支度を整え始めた。
「しんどいから休み休みやるわ」
と言いながらも、到着してから口は動きっぱなしである。

「どこから来たの? 東京? 飛行機で来た? 金持ちやな」
と甥をからかっている。

「今日はお父さんの7回忌やったかな」
「いえいえ7回忌はこの前してもらったから、今日は主人の3回忌です」
「ああそうか」

冗談なのか本気なのかわからない。
表情ひとつ変えずにみんなを笑わせている。

これが大阪人なのか?

お経は、いつも何を唱えてくれているのかわからないものだと思っていたのに、何だか分かりやすいぞ。
所々で説法のような言葉が交じる。

当たり前の幸せは、無くした人しかわからない。
どれだけ満たされて幸せな状況でも
他人の不幸を見ないと自分が幸せだと思えない。
他人と比べて優越感を感じて幸せだと思う。
人間は勝手なものだ。

などなど、自分の心にぐさりと来る話がお経の間に入って来た。

そしてまた帰り支度をしながらお坊さんの話は続く。

「大安がいいと大安に結婚した娘が半年で帰ってきた」
「暑い日に奥さんが家で迎えてくれるのは有り難い。顔を見るとヒヤッとして汗がひく」
「いつ入院しろと言われるかわからないから、入院用に昔の名曲を通販で買ったら色々なものの売り込みが来るようになった」

などなど、とめどなく話は続いた。

親族一同、終始笑いに包まれた法要になった。

これが大阪の法要なのか?
あのお坊さんだけが特別なのか?

それでも妙にしめっぽくもならず、心の整理が出来る様になった時期にこの法要は何だか心が軽くなった。
笑って前を向いて生きて行く事が何よりなのだろうと思う。

冗談の中にも、
色々な人との別れがあったり、辛い事があったり、どの家も何かしら抱えているものだけれど、しっかり生きて行くということの大切さを説いてくれていた。
推定年齢80歳くらいのあのお坊さん。
どうか病気に負けず少しでも長生きしていただきたい。


「法要というより寄席に来たみたいだった」

そんな感想を伝えたら甥が大笑いしていた。

みんなが笑顔だった3回忌法要。
兄もきっと
「ええんちゃう」
と笑っていた気がする。

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