【追記あり】「『AKIRA』じゃなくて『KANEDA』だろ?」という層のための勝手な解説

東京オリンピックだの何だのと2020年はAKIRAイヤーなわけですが、原作の完結からもう30年経っているせいもあって、『AKIRA』という作品を理解できていない人の多いこと。ネットなんかの意見にそりゃ違うんじゃね?と思うことしきりなので、素人なりに解説してみることにしました。

『AKIRA』は『NARUTO』ではなく『ONE PIECE』

まず『AKIRA』というタイトルは『NARUTO』ではなく『ONE PIECE』だということからかな。

『AKIRA』ってタイトルだけど主人公は金田じゃないの? ていうかアキラってそんな大事なキャラクターか? みたいに疑問に思う人が多いらしい。

でも多分ね、このタイトルは主人公の名前じゃない。物語の中心となる“モノ”の名前なんです。『NARUTO』は主人公の名前だけど、『ONE PIECE』は主人公たちが探し求めている財宝ですよね。それと同じ。

『AKIRA』は、アキラという“力”をめぐる物語なんです。そして主人公は金田。あるいは金田と鉄雄。

(※『ONE PIECE』は読んでないので語弊があったらすまん。)

『AKIRA』における“アキラ”という存在の意義

『AKIRA』のラストが納得いかない、よくわからないという人も多いようです。

――実質的に3度の崩壊を経たネオ東京に、国連の監視団が介入。しかし金田たちがはそれを突っぱね、仲間たちだけの、自分たちだけの独立国家「大東京帝国AKIRA」樹立を宣言。

そこで金田が吐くのがこの台詞です。

「アキラはまだ俺達の中に生きてるぞ!」
 (出典:『AKIRA』第6巻422ページ)

ここで「アキラ? 鉄雄じゃなくて? 山形とかでもなくて?」「別に金田はアキラに特別な思い入れなくない?」とか思いませんでした? 私も初めて読んだ中学生の頃は思った。

これ、若い子が理解できたらそれはそれですごいと思うんですが。だってこれ、いい年した大人ならではの考え方なので。

これを理解するのに大事なのは、物語上での“アキラ”の意義です。

アキラの人生を最初から振り返ってみましょう。

アキラは、政府による超能力実験の被験体でした。マサル、タカシ、キヨコたちとともに集められ、いわば国にモルモット扱いされていたわけです。しかしよく見れば、被験体としての生活はそう悲惨なものではなかったことがわかります。何故ならそこで、分かり合える仲間ができたからです。

そんな仲間たちとの日常を過ごしていたアキラですが、ある日その大きすぎる力によって、東京を壊滅させてしまいます。これは作中で災厄とも呼ばれますが、アキラはモルモット扱いに怒ったわけでも、うっかり力を暴走させて後悔したわけでもないでしょう。ただ彼の力が大きすぎた。それだけのことです。政府だの軍だの国だの、そんなもので扱いきれるような器ではなかったのです。

大友克洋氏の他の作品も読めばわかるのですが、彼は子供の力というものに大いに期待を寄せているタイプの漫画家です。

よっておそらくアキラとは、何物にも制御できない力の象徴でしょう。そこに善悪や功罪はなく、大人たちの思惑も実験体としての生活も、彼にとってはプレッシャーにもストレスにもなりえなかった。ただ力として健やかに育ち、それが爆発したのです。

それほどの力であったから、3度の東京の壊滅を通しても、アキラはただ心の通じ合う仲間だけを得ました。その仲間には、金田も鉄雄もケイも含まれています。金田がそれを感じ取るシーンもありますよね(第6巻362~365ページ)。

大きな力は破壊や不仕合わせも生むが、新しい力や未来も切り開く。その力の最たるものはアキラだが、金田も鉄雄も、2人が出会ったこともその1つである。たとえ肉体が死んだとしても、それらはすべて心の中で生き続け、未来につながる。

それを一言に集約したのが件の金田の台詞であり、仲間たちと復興を目指す街を駆ける彼らの後ろ姿――なんじゃないでしょうか。

こうやって若さに夢を見るって、そこそこ年取った人間の感覚だよなあ。『羅生門』において“にきび”を若さの象徴として用いたのと近い気がする。まあ、この文章が誰かの理解の一助になれたなら幸いです。

『AKIRA』の何がすごいのか【追記ここから】

物語については上で充分触れたので、ここでは大友克洋氏の絵について語りたいと思います。氏の画力が高いのは周知の事実ですし、彼が現れた当時、あの漫画離れした描き方は本当に新しかった。あの絵を(美少女画として以外で)下手だという人はいないでしょう。

で、その彼の圧倒的な画力が最もいかんなく発揮されているのが、アニメ『AKIRA』なのです。

絵の上手さって、何だと思いますか? 私は大きく分けて、“観る力“と“描く力の2つだと思っています。描く力というのは、丁寧さだったり器用さだったり、今ではソフトを活用できる技術なんかも含まれます。あるいはどんな画材でも自分なりの表現に生かせるなら、それは描く力が優れているといえるでしょう。昔の画家なんか、限られた画材で写実的な絵を見事に仕上げていますよね。

しかし大友克洋氏に関して特記すべきなのは、“描く力”より“観る力“の方なのです。

以前ネットで見かけた感想ですが、「『AKIRA』の絵くらい今ならCGで描けんじゃね? 手描きって言われてもどーでもいーし」みたいなの。

いや、そりゃ超時短で描けるでしょうよ。『AKIRA』の絵(動画)をただそのまま描くだけなら。そうじゃないんだってば。あのアニメが凄いのは、あの街並みや人々の生活感、あのバイクの軌跡、それに対応する背景の移ろいまで全部頭の中で創って動画にしたことなんですよ!

もちろん、元ネタはあると思います(多分)。もしかしたら(あくまでもしかしたらね)それを見ながら作ったのかもしれません。でもそれをあの密度と完成度で再現できるというのは前代未聞でしたし、それはただ目で見ただけでなく、作画イメージに変換できる力があってこそです。ですから大友克洋氏という先駆者のフォロワーが、さらにクオリティの高いものを作れたとしてもそれは別の話。

本当に絵の上手い人というのは、観たものを作画に落とし込むのが上手いんです。何をどう描けばそう見えるかをすぐに理解する。それが、“見る力”です。

大友克洋氏に限らず、昔の漫画家は、頭の中のイメージをそのまま絵にした気持ちよさがありました。いつだったか、江口〇史氏が最近の漫画背景について語ってらしたのもこれじゃないかなと思うんですが。

最近は作画ソフトが発達したので、「手を動かしていたら描けた!」みたいなことが普通にありますが、昔はそうはいきませんでしたから。ミスしたら修正したり、最初から描き直したりというリスクがありました。だから最初にイメージを持つことは今よりずっと大事だったのではないでしょうか。

『AKIRA』には――漫画もアニメもですが――、作者に見えたものをそのまま見せられているような、作者の頭の中にある別世界に引きずり込まれたような、そんなセンス・オブ・ワンダーがあります。もしかしたらそういうのを感じる人自体少なくなっているのかもしれませんが。

観える人ってすごい。できれば多くの人に、それを感じ取ってほしいものです。1ファンとして。

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