差別は錯覚?


知人からもらった108さんの『I』という本で、
愛とか完全性でないものは錯覚、
とあって、
思い出した。
しばらく前、
3歳くらいの黒人の幼児と白人の幼児が、
保育園みたいなとこで
無邪気に抱き合って笑っている動画があった。
ただただ無邪気さと喜びだけがあった。
幼い無垢な心には
差別とか優劣の感覚はなくて、
自分の中にある差別の感覚は
ただの錯覚なのかもな、
と思った。

FBを見ていても、
動画とか見ていても、
「日本人より白人の方が見た目が美しい」
とか、
なんか日本人、アジア人である自分は劣っている感覚とか、

自分の日に焼けた褐色の肌はなんか美しくないように感じたり、
「なんか、下、劣ってる不快な感覚」
がある。

コース界隈の人間としても、
リビングミラクルズとか、
キリスト教圏の人たちの方が
「自分より本気の真理やイエスの信仰心とか信頼がある人たち、
白人とかは日本人よりも歴史的にも
由緒正しいというか、
日本人はなんか場違いというか、
日本人は霊性の道でも白人のサルマネをして、
白人たちのあとを後ろからついて行っている、
なんか第二級のカテゴリで、
白人たちは由緒正しき正統な人たち」
みたいな、
なんか劣った感覚。

リビングミラクルズの人たちを見ていても、
「彼らは本物の道を歩いて本物の体験を
たくさん積んできた進歩した人たちで、
自分たちはそのマネごとをしてる
ニセモノみたいな、
どう頑張っても本物にはなりきれない、
越えられない壁があるから、
本物たちの体験や教えをありがたくもらわないと幸せになれない」
みたいな、
そんな感覚はいつもある。

ニコラスとかアンディとか、
同世代の人たちにも、自分の生きた人生より、
彼らのコミュニティで生きた人生の方が、
実りある充実した、
より本物の人生で、
自分はただ中途半端に彼らのマネをしようとした二流品、
彼らとは越えられない本質的な違い、
壁、ランクの違いがある、
という感覚。

自分も彼らみたいな人生だったら、、
と考えが浮かぶ。

この人生より、あの人生の方がいい。
この差別も、
ただの錯覚なんだろうか。

白人たちは、
キリスト教文化で育ったことに不満を感じたり、
白い肌に弱さとか陰キャっぽさを感じて肌を
黒くしたがる人たちもいると言っていたけど、
それと同じこと、
ただの錯覚・解釈の思い込みなんだろうか。

たぶん、そうなんだろう。

コミュニティにいたらつながりとか親密さを感じるだろうし、
闇が露わになって赦される機会も多いだろうし、
この道を進むのも速いだろう、
より幸せな人生だろうみたいな感覚、
それに引き換え自分は、
孤独、退屈、虚無感、充実してない感じ、
何か喜びや親密さや理解をもたらす機会が少ない人生、環境、
という比較の感覚もあるけど、
やっぱりこれも、
錯覚なんだろうか。

3歳の幼児からしたら、
たぶん関係ないんだろう。

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