「星鏡の橋」序
けんちん汁の旨い季節である
幸い、ここ田端には大根と里芋は豊富にある
たとい、大根と里芋をくれてやったとしても、そのまた明日にはその家の畑の大根と里芋が戻って来る・・
けんちん汁と言えば、寺の精進料理にも挙げられる
肉や魚がなくとも、少量の菜種油で炒めると言うのは、ただ煮るだけでくったりするのではなく、コクが出て香ばしい
昼はけんちん汁ではなく
くず野菜の端やありものの、かき揚げだった
そんな中、風呂敷三つを抱えてやって来たのは
「おや、田端さん」
田端さんは通り名である
田端に住んでいる
単に「カジマサン」と本名で呼んだほうが、神秘的だし、発音も粋だと思うのだが・・
「タバタサン」では、語尾が下がるか止まってしまう気がする
「あ、カジマさん」
それなら、「ん」で終わっても「さ~ん」と伸ばして軽やかだ
「あ、タバタさん」
では、頭の「タバタ」に力が入り重いと思う
つねづね、不思議に思う
呼べば広大な原の農村の田端らしい風景が広がる
しかしながら、この田端の文士村の後援を担ってくれる「カジマサン」の知的な文学理解よりも、太っ腹なタチのほうが「タバタサン」ぽいのかも知れない
顔は若い頃から端正
美男だろう
田端文士村より、田端モンマルトル村のほうが、彼は似合う
留学先の愛称はトーマスとのこと
かくいう自分も美男と言われているらしいのだが、たぶんに額が広いと思う
そう言えば、深川生まれの「タバタサン」
どうして田端に転居してきたのだろう
自らの家に「孤峯荘」とつけるくらいだから、晴れた日に見える古峯の筑波がよほど気に入りだったのだろう
そう言えば、その筑波からは晴れた日に、この東京浅草辺りも見えるらしいから
「田端さん」は風呂敷を、一つ一つほどいてゆく
四角形なので、絵画かと思っていたが
「なんでしょうか、それは」
「うん、これ。額嵌めの面だね。一枚は、これ。女面。うん、良いね。これは、翁だね。髭が強いが、まあ素材が手に入りにくい場所だから、仕方ないね。まあ、ちょっと優しさが残るなあ。翁は勘定高そうな、悪っぽいのが好きなんだね。もう一枚・・うーん、これは般若だろうか?赤銅っぽいね。泣いた赤鬼のような・・仁王さんほど迫力もないし。どう思う?芥川君」
「鬼かなあ・・うーん、天狗になりそこねた。女面はとても良いですね」
「だろう?」
「どちらの?」
「うん?ちょっと或る山でね。常磐炭鉱道のV字点で大規模工事を進めているんだ。きっと目玉工事になる。勘だけれどね。まあ、そこにいたんだよ。花咲か爺さんみたいな彫り師がさ」
「へぇー。お出かけだったのですね」
「残念なことにもう一人の龍が辞めちまう。千の龍を背負ったような奴だったが、もともと体を壊していた。あいつは川龍だから、第三水路計画にいいと思ったんだがねぇ」
「もう一人の龍・・田端さんは西洋の海を渡った龍でしたね」
「ははは、そうだった。あんたも龍じゃねぇか」
「私は河童ですから、はは」
「そして餓鬼であり、天狗であり。天狗倶楽部の梁にでも飾りたまえ」
「それは・・ありがとうございます」
頭を上げてみると
そこにはもう「田端さん」の姿はなく
広げられた紫の風呂敷の上で、扇状に並ぶ三体の面が上を向いていた
私は夢を見たのかと思った
くり貫かれた眼には目玉はない
しかしなぜかこちらを女面がキロリと見たような気がした
私はややたじろいだ
翁はそれを面白そうに
まるで、「これは使えるな」と言うような不敵な笑みを浮かべていた
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