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「花鳥禅的」

自然の理・摂理・叡智とはなにか
男と女があり
手を取り合い
居を構え、愛を育み、子をなす
そこに男と女があれば自然に引き寄せあい、身体は凹凸にぴたりとおさまる
かぐわしい髪に酔い、肌に触れ、身体の中で混じり合い溶け合い、女の血の中を走り抜け
その結晶は裸の、火がついたように泣く赤子として生まれる
それがことわりなのか
人は寿命と病と死からは、逃れられぬものだろう
しっくりと収まるところに物事は落ち着く、トントン拍子に決まる、水面下で約束されたことは、流れに身を任せていれば成就するのである
だがしかし、それは自分が望んだことであろうか
人は変えられないことを、変えようと努力する
水面下で約束されたことであっても、もがき遁走したあげく水の泡と帰す
高い所からの水は下に流れて行く
つっかかる物があり、そこでおりやあくた塵が溜まり、澱む
物事は停滞する。人生も停滞する
人の人生に常に無関心で常に干渉する必要はない
ただその単体の習性と資質は把握しておいたほうがよい
相手も自分と同じ、痛みも温度も感じることを覚えていなくてはならない
不用意に所払いや席払いをする権利はないのである
我々がこの世界で我が物のように、湯水のように勝手に贅沢に使えるものなど何一つ、ありはしないのである
金を出し買ったところで、金を得る為に勝手に自分たちの名義にしただけのことである
鳥たちは特に、その摂理をわきまえている
互いの役割と使命を心得ている
空間を共有するものたちはそういうものである
有事の折りには介添として、守り合うものなのだ
人間は『ひとりの人間として』産まれて来るが、決してひとりで生まれることも、ひとりの力で生きている訳ではない
それが出来ていると自分に酔うものは、それが全て自分の力だけによるものか、振り返ってほしい
自分の人生なのに、自分のことは何一つ自分ではしていないことに気づくだろう
自分の人生は他の誰かが代わってくれたに過ぎない
人生の叡智とは、誰かがやらなければならないことではあるが、決してする必要もない
やることはひとつひとつ見ればたくさんあり、違って見えるようだが、たったひとつのことの繰り返しと応用なのである

それをわたしたちは、自然の中で四季を通じて感じ、花や鳥のさえずりに歌を詠み、厳しい気候や不便さに打ちのめされながら生き抜く力強さを身につけて来たのであろう

愛子のお母さんが、山栗を剥いて栗御飯を炊いてくれることになった
わたしも少しお手伝いしよう
栗の皮を包丁で剥くが、硬い
包丁が滑り指を切りそうだ
刃が小さな栗を持つ皮膚に当たって痛い、怖い
申し訳ないがやめる
それに栗の中から白い芋虫が出でくる
こんな小さな山栗の中にどう潜んだものか
わたしは苔の生えている地面に向かって、猛烈に進むその芋虫を、部屋に上がって硝子越しに見た瞬間
ひゅうぃ、と飛んできた鳥が咥えて行ってしまった
あ然として、なんだか悪いことをしたのだとそわそわして来て、わたしは頭を抱えてしまった
トンビもカラスもわたしを見ていたのだ
人からは隠れるようになるたけ身を隠して、見えないように茂みにいたのに・・
空からはわたしの庭に投げる生ゴミも、点のような芋虫も
手の内がハッキリと見えているのだろうな
浅はかな考えというのは、露見が早いということなのだろう

ホトトギスもモズも、わたしはなにも習性までは好まない
古くから神様の御使いらしいとは、聞いている
現に先生も会に戴く名だ
わたしも花鳥を・・(ひよどりのことらしいが)もったいぶって、いつか使わせて頂くことにしよう

花咲ける森
わたしの心はいつも散る
あのよの里の花とは、年中咲いていて・・
歌人や作家が死んでから後、ゆくという幽冥の里があるという
知った顔の君や、彼や、あの人や、先生や
もちろん愛子にだって会えるだろう
体調など気にせずに、評価などに惑わされずに、花と鳥を愛でては謳い詠み暮らそう
わたしたちは死んでから後、滅びの美学を知るのかもしれない

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