アウトサイダーとして自分の中心を生きる 「ポスト・ロールモデルな生き方」

(*本記事は、2017年にシミルボンに投稿された連載「僕らの生存戦略ブックガイド」からの転載です)

今回のコラム「僕らの生存戦略ブックガイド」では、生き方と成功にまつわる本を四冊紹介します。これは「僕らの生存戦略」にとってコアとなる大切なお話でもあります。

自由とその代償

生き方が自由に選べる時代。現代はそういう時代です。

少なくともこれまでの歴史を振り返ってみれば、現代の個人が選択できる生き方の多様性は目を見張るものがあります。そのこと自体は豊かさと可能性の実現であり、基本的には良いことなのでしょう。しかし、生き方を自由に選べるということは、自分で生き方を選ばなければならないということでもあります。

一昔前のように「よい大学、よい企業」のルートを通っておけば、「よい人生」が得られる保証はどこにもありません。また、そのルートを目指そうにも、(皆がそこを目指すので)圧倒的に狭き門をくぐり抜ける必要があります。押しくらまんじゅうの競争を勝ち抜かなければならないのです。もはやそれは、万人に開かれたルートとは言えないでしょう。

結局、どうやって生きるのかの安定的な指針はどこにも見つかりません。

昔は機能したであろう「ロールモデル」という考え方も、5年も経てばさまざまな物事がガラリと変わってしまうような変化の早い時代においては、ほとんど機能不全に陥ります。

また、現代で尊重されつつある多様性のある生き方とロールモデルは根本的に合いません。他の誰でもない生き方でもって、自分の人生を歩まなければならないのです。

だからこそ、自分が進む道を自分で考え、自分で決めることが必要となってきます。そのヒントになる本をこれから紹介していきます。

「成功」ってなんですか?

一冊目は、村上龍さんの『人生における成功者の定義と条件』。さまざまな分野の「成功者」(と世間から見られている人々)へのインタビューがまとめられた本ですが、冒頭で著者は次のような指摘をしています。

社会のシステムや考え方が変化すると、人びとの価値観や判断基準や生き方の選択も変化していく。(中略)だが、そういった変化に言語や概念はうまく対応できていない。

対応できていない言葉としてまず「普通」が、次に「成功」があげられています。たしかに人びとの生き方が多様化すれば、「普通」という概念は機能しないでしょう。マジョリティが存在してこその「普通」です。同様に、「成功」にも経済的達成という含みが残っており、しかもそれは高度経済成長期における文化的価値観の残滓でしかありません。もちろん現代でも、経済的達成は成功の一つの形ではあるでしょう。しかし、それだけが「成功」なのかは疑問を挟みたいところです。

それにもし、それだけが「成功」なのだとしたら、今後不安定な経済状況を迎える我が国において、ほとんど大半の人が成功者にはなれないことを意味してしまいます。「負け組」だらけの国になってしまうのです。はたしてそれは健全な価値観と言えるのでしょうか。違う考え方が必要なのではないでしょうか。

著者は仮説的に、人生の成功者を「生活費と充実感を保証する仕事を持ち、かつ信頼できる小さな共同体を持っている人」と定義しています。経済的達成を内包する、より高次の、あるいは一つ上の階層の定義と言えるでしょう。

とは言え、これもまた一つの仮説でしかありません。ぜんぜん別の定義も十分にありえます。

生き方と働き方

二冊目および三冊目は、西村佳哲さんの『自分の仕事をつくる』と『自分をいかして生きる』です。

この二冊の本では、さまざまな人の働き方と仕事が紹介されており、しかもどれもが個性的です。それぞれの人の価値観、境遇、めぐり合わせがあって実現された生き方であって、とても真似することはできそうもありません。その意味で、本書はロールモデルの提示ではないわけです。

それでも、二冊の本を読み通せば、「大学を卒業し、新卒で入社して、そのまま仕事を続ける」以外にもさまざまな生き方の可能性が開かれていることがわかります。そうした生き方は決して簡単なものでも、安易なものでもないでしょう。それなりの苦労が伴うはずです。しかし、可能か不可能かで言えば、可能であることが提示されている点で、この二冊の本には希望が宿っています。

ちなみに、両方の本を通じて感じるのは、「自分事」の大切さです。どのような仕事であっても他人事にしないこと、そして騒がしい外部からの声ではなく、自分の内側から湧き上がる「ざわざわ」とした感じを大切にすること。さらにその「自分」が「自分たち」として広がっていくとき、その仕事は社会に接続するものとなっていくのでしょう。

納得できる人生

四冊目は、finalventさんの『考える生き方』です。

本書は冒頭から、自分が「成功者」ではないことを告げた上、少し冷たいことが書かれています。

たいていの人もそうだろう。若いころ思っていたような希望に挫折して、それなりに運命と折り合って生きていく。

残念な事実です。しかし、著者はこう続けます。

世間的に社会的に、自分の人生の意味はないとしても、自分の内側から見れば、それなりにある種の手応えのようなものがあれば、それを支えに生きていける。

私には、この言葉は強い希望の言葉として聞こえます。

旧式の「成功」を棄却し、新しい「成功」の形を定義して、そこに向かって自らの足で進んでいく。それはそれで素晴らしいことですが、必ずしもそれが達成できるとは限りません。挑戦には、必ず失敗の可能性がつきまといます。

しかし、たとえそうであっても、自分の人生に納得はできると著者は説きます。

普通の人が世の中に隠れて普通に生きていく。普通でなくてもいい。世の中に評価されなくてもいい。とるに足らないことであっても自分の人生の意味合いを了解しながら生きていくことはできる。誰でもそういうふうに生きていくことはできる。

おそらく現代、いや、これからの社会にとって必要な姿勢とはこういったものでしょう。誰かが自分の人生に意味を与えてくれない時代では、自分が自分の人生に意味を与えていかなければなりません。

さいごに

昔ながらの生き方が機能しなくなっている、ということはよく言われます。そこから「レールを外れて生きよう」のような言説も出てきます。

しかし、「レールを外れて生きよう」と提示されてレールを外れて生きようとすることは、単にそれまでとは違う人が示したレールに乗っかることに過ぎません。ロールモデルの対象が「少し前の人々」から「特定の誰か」に移行しただけなのです。

現代に必要なのは、ポスト・ロールモデル的な生き方です。誰かに生き方を提示してもらうのではなく、自分なりの「成功」の定義を見出すこと。あるいは、「成功」から距離を置き、自分の人生と折り合いをつけながら、納得感を持って生きることです。

時代が不安定になればなるほど、「こう生きなさい」の指示を求める人は増え、それに呼応するように「こう生きなさい」というアドバイスが世の中にあふれ出てきます。しかし、結局のところ、ポスト・ロールモデルの時代に、そんなものは役立たずなのです。

私たちは、自分として──たとえそれが社会的にはぐれものであろうが、アウトサイダーであろうが──、自分の中心に居座って生きていくしかありません。そしてそのためには、自分で考え続けるしかないのです。

主体性を発揮する場合でも、流れに身を任せる場合でも、何かしらに折り合いをつける場合でも、すべて自分で考えているからこそ、そこに自分の痕跡を刻むことができるのです。

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