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第十九回 Re:vison

一冊の本を書き終えたあと、それを読み返してみると、ああ自分が書きたかったのはこういうことだったのかと発見することがあります。実に不思議な発見です。

何せその本を書いたのは私であり、つまり行為の主体者は自分です。その自分が「こういう本を書こう」と思って書いたはずの本から、新しい発見があるのです。

おそらくその発見は、一番最初に自分が「こういう本を書く」と決めて、100%その通りに執筆を進めていたら、得られなかったものでしょう。そのルートから外れたことで、結果的に得られたものなのです。

実は、執筆だけでなく、人生についても(生きるというDoを実践していく過程においても)似たようなことが起こります。

以外な発見

最初に目標や計画を立て、それに合わせて実行しようと試みるも、周りからの影響や自分の心変わりやたまたまの何かによってその通りにはいかずに脱線してしまう。そこからなんとか建て直そうと頑張るも、やっぱり脱線してしまう。

そういう道行きを立ち止まって後から振り返ってみると、ああ自分がやりたかったのはこういうことだったのかと発見するのです。実に不思議な発見です。

人生を生きたのは私であり、つまり行為の主体者は自分です。その自分が「このように生きよう」と思って生きた人生から、新しい発見があるのです。

おそらくその発見は、一番最初に自分が「このように生きる」と決め手、100%その通りに生きていたら、得られなかったものでしょう。そのルートから外れたことで、結果的に得られたものなのです。

ここには大切な話が含まれています。

発見:ビジョン

発見とは、ある時点まで自分が知らなかったことを見つけることです。そこには、「自分が書きたかったこと」──つまり、自分自身についての情報も含まれます。当然、その階層を一つ上れば「自分がやりたかったこと」もそこには入ってきます。

人間は、常時「完全な」感覚を持って生きていますが(それが正義の怖さです)、実際、自分が知っていることは限られています。自分の視野や世界観は極めて狭いものなのです。

しかし、その狭いなりに人は、世界を認識し、自分を把握し、目標や計画というこの世界へのコミットの仕方を模索します。むしろ、そうした模索こそが「自分」という現象なのだとも考えられます。

人間はビジョンを持ち、しかしそのビジョンは完全ではない。

こうしたとき、ビジョン(未来への視座)なんて持たなければいいんだ、という考え方はあるでしょう。そうすれば、ビジョンの不完全さとは縁を切れます。しかし、ビジョンを持たないで生きていくということもまた一つのビジョン(未来への視座)であると捉えるなら、ビジョンと縁を切るよりも、その不完全さとうまく付き合っていく方法を模索すること──それもまたビジョンです──の方がより前向きな姿勢ではないかと感じます。

足跡のように残る意志

ある時点のビジョンが不完全であっても、状況の変化や新しい情報の入手と共に、ビジョンを作り直していくことで、少しずつ「マシ」なビジョンへと変化していくことが期待できます。

ビジョンの再構築。これまでのビジョンを踏まえて、もう一度ビジョンを作り直すこと。

そのようなビジョンの再構築は、そのたびごとに自分の意志をそこに残していきます。たとえ理不尽なことがあり、その状況に合わせるための調整にすぎなくても、その「合わせ方」に自分の意志が残ります。自分の意志が足跡のように残っていくのです。

自らの意志によってビジョンを立てながらも、それに固執して閉じこもるようなことはしない。新しい発見の余地を常に残しておく。しかし、ビジョンの不完全さを放置することもしない。ビジョンを、ビジョンで上書きしていく。

それがRe:visonです。

(つづく)


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