毎週メルマガを配信すること / 倉下脳内ツアー2024 / 最近のモットー
はじめに
当メルマガも、第700号を迎えました。
長く続けていると実感みたいなものがだんだん薄れていくわけですが、数字として表されると、「そうか、もう700回もやってきたのか」と感慨が深まります。
今回は特別号として普段とは少し違ったコンテンツをお贈りします。新刊のプレゼント企画もありますので、ご期待ください。
〜〜〜Obsidian〜〜〜
Knowledge Walkersにも記事を増やしていかないとな〜と思いながら、結構な時間が過ぎました。書くこと自体はあるはずなのですが、「ちゃんと書かなきゃ」という思いが強すぎてうまく書けていなかった感じです。
というわけで、ツールについて勉強したことを適宜まとめていくことにしました。
◇Obsidian入門 | Knowledge Walkers
https://knowledgewalkers.com/?Obsidian入門
このページはObsidianについてですが、Notionについても少しずつ使い方を調べているので、その結果なんかをまとめていこうと考えています。
なんにせよ、最初からちゃんとまとめようとはせず、とりあえず書きとめてから、後で整えるという「いつものやり方」でやっていきます。
〜〜〜二酸化炭素濃度計〜〜〜
前々から気になっていた二酸化炭素濃度計を購入しました。室内の二酸化炭素濃度を測定してくれる機器です。
◇Amazon.co.jp: 【アルコールに反応しない!】co2測定器 ndir方式 co2モニター 二酸化炭素濃度計
Amazonから配送されて、すぐに電源をオンにしてみると驚きました。測定の範囲は400〜5000 PPMで、1500を超えたら換気した方がいいよとアラートが鳴らされるのですが、電源をつけた直後は511で、次の瞬間には4000オーバー。
空気が悪すぎる。
家に篭もりっきりで、暖房(石油ストーブ)をつけっぱなしだと空気が悪いだろうな〜と想像していたのですが、より悪い方向に予想外の結果になりました。
で、面白いのはそうやって室内の二酸化炭素濃度が数値として表示されていると、私も妻もこまめに換気をするようになったのです。機器そのものは何の「命令」も出していません。ディスプレイには数字が表示されているだけです。
でも、数値が上がったあと、窓を開けると面白いように数値が下がっていきます。換気の効果が「可視化」され、自分がやっていることの「意義」が感じられるのです。
そのような環境さえ整えば、命令されなくても人は一定の傾向を持った行動を採る。
というのは、タスク管理的な話でも面白いと思います。もちろん、ある種の怖さもあるわけですが。
〜〜〜『群論への第一歩』を読む〜〜〜
結城浩さんの新刊『群論への第一歩』を買って読みはじめました。
◇群論への第一歩 集合、写像から準同型定理まで | 結城 浩 |本 | 通販 | Amazon
最初からこの本は「きちんと読む」と決めていたので(定義は不明です)、読書メモを取りながら読むことに。
◇『群論への第一歩 集合、写像から準同型定理まで』 - 倉下忠憲の発想工房
一つの章を読むのに、1時間半から2時間くらいかかっていますが、そのおかげか現状はまだ挫折せずについていけています。
で、やっぱり思うのですが、「早く読むとわからない」のです。わからないものはゆっくり読まないといけない。特に「群論」は、私の中でほぼ白紙の領域なので、それこそ外国語を学ぶくらいの気持ちで読み進める必要があります。
そうした意識が欠落していると、ぱらぱらと読んで「うん、わからない」となりがちです。そういうのって、「わからない」以前に、わかろうとしていないのです。それはちょっともったいない。
ゆっくり読む・時間をかけて読むとは、目を動かす速度を物理的に落とすことではありません(そりゃそうだ)。そうではなく、一つの主張が出てきたときに、「自分はそれを理解できているか」を常に気にしながら読むことです。
ふんわりわかった気持ちで進めるのではなく、一つひとつ立ち止まって「自分はわかっているか?」と問い、分かっていなければ文章に戻って、それがどういうことなのかを確かめてみる。そんな面倒なプロセスを経ながら読むことが、「ゆっくり読む」という行為です。
それにしても、2000円とか3000円とかの本を、数時間で読破できることが「コスパ」がいいのか、それとも一週間とか二週間書けて読み続けることが「コスパ」がいいのか。もちろん、パフォーマンスをどう定義するかによって変わってくる答えではあるのですが。
皆さんはいかがでしょうか。一冊の本を読むとき、どれくらいの手間と時間を掛けるでしょうか。そして、読書におけるコスパとは何でしょうか。
よろしければ、倉下までご意見お寄せください。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。今週は特別号として、特殊なコンテンツをお送りします。
毎週メルマガを配信すること
700号、メルマガを続けてきました。
週一回配信なので、52で割れば13とちょっと。13年以上の計算になります。
体調不良でところどころ歯抜けみたいな部分はありますが、それでも休まず続けてきました。
いまだにどんなことを書くのが「正解」なのかはわからず、時期によって内容はマチマチですが、それでも「箱」としてのメルマガはずっと同じように続けてきたことになります。
これをお読みになってくださる方は、今月から読みはじめたからもいらっしゃるでしょうし、それこそ13年前からお読みくださっている方もいらっしゃるかもしれません。実にありがたいことです。
なぜこんなに長い間続けてこられたかのと言えば、そうして購読してくださる読者さんがいらっしゃるからです。これはおべんちゃらでもなんでもなく、実際的にそうなのです。
執筆業というのは収入がびっくりするほど不安定で──アドバンスの制度がない日本の場合、本を書き始める段階でいくらの収入になるのかまったくわかりません──、メルマガのような定期収入が生活の安定にどれだけ貢献してくれるのは力説しても足りません。
つまり、「経営」的にメルマガを続けることには意義があるのです。
■動機づけ
もちろん、意義があるからといって続けられるものでもないでしょう。もしそれができるなら、世界中のダイエットは成功の連続です。
実際にこうしてメルマガを続けられているのは、「読者」さんがそこにいるからです。売り上げが生まれることではなく、読んでもらえていることに私が嬉しさを感じているからこそ、続けられているのです。
たとえば、「毎月原稿を書いたらお金をやろう。ただしお前が送信した原稿は直後に消去され、誰の目に触れることもない」という"仕事"が発生したら、どうでしょうか。一見するとすごくラクチンです。誰にも読まれないのだから、何を書いても構いません。極論すれば、「ああああ」とだけタイプして文字数を稼いだ"原稿"を送信するだけでもよさそうです。
でも、だからこそつまらなくもあるでしょう。真の意味で「何を書いてもいい」ようなことは、意味を発生させません。自己満足すら生まれない行為です。
やはり、自分が書いたものが誰かに読まれる(あるいは読まれうる)という点が大切で、その感触がメルマガを続ける動機づけになっています。感想をいただけるのが嬉しいのはこのためです。書籍とは異なるスパンで得られるフィードバックが、精神的経営を支えてくれています。
■自由に書く
上の話と少し逆になりますが、メルマガではある程度「何を書いてもいい」というのも特徴です。
書籍の場合、基本的にはそのテーマのことだけを書かなければなりません、テーマ外のことを書いたら基本的には削除されます。しかし、メルマガは違います。一つの号に複数のテーマをちりばめることもできますし、ある号と次の号が別の話を扱っていても構いません。
連載的なものもありますが、それも絶対的な縛りではなく──本号のように──途中で別の回を挟むことも可能です。
気移りの多い私にとっては、こうした形態は非常に楽です。もしこれが厳密なテーマのもので書かなければいけないという制約があるメディアであったら、700週どころか、10週も続かなかったでしょう。ある程度「自由」だからこそ、続けられてきたと思います。
それだけではありません。そうした自由さは、書き物仕事の「実験場/ラボ」としても機能してくれます。
・最終的にどういう結論になるかわからない
・テーマがぼんやりとしている
・面白そうだが、確信はない
といった話題を、お試し的に出してみることができるのです。
ここで重要なのは、単に「こういうアイデアがあるんですよ」と示すことではなく、実際にそのことについて文章を書いてみることです。文章を書いてみることで、結論が導かれることもあれば、テーマの輪郭線がはっきりしてくることもあります。読者さんからの反応で面白いかどうかの判断がつくこともあるでしょう。
なんにせよ、アイデアを着想のままでなく、文章として書いて提出することがそのアイデアの試金石として機能します。脳内に漂っているだけでは、そうした判断が下せないのです。
とは言え、「よし、アイデアがある。文章を書こう」とはなかなかならないものです。他にもやることがいっぱいありますからね。しかし、毎週「メルマガ」を書くというタスクが生まれ、そこで何かを書かなければならないとしたら、どうでしょうか。「よし、あのアイデアを文章にしてみよう」と思いやすくなるはずです。
ようはアイデアを文章化するための一つのトリガーとして、メルマガ配信という「タスク」が役立っているのです。別の言い方をすれば、毎週のメルマガタスクの発生は、執筆業におけるペースメーカーになってくれています。
毎週何かを書く。
これを実現する上で、定期購読してくれる読者さんに文章を届けるというタスクは最高に機能してくれているのです。
■さいごに
というわけで、私の視点での「メルマガ」について書いてきました。
基本的には良いことばかりです。たしかに毎週1万字ほどの原稿を書くことは結構な苦労なわけですが、話題を自由に選択していますし、フィードバックも得られることを考えれば、ぜんぜんペイできる営みです。とは言え、これは書き手側の話でしかありません。
実際に読者さんがどのように読み、受け取っているのかは、私からは見えません。もしかしたら、まったく面白くないと思いながらも購読してくださっている方もいるのかもしれません。そういうことを考えはじめるとずぶずぶと沼に嵌まりはじめます。
とは言え、ちょっと思うのです。「毎週定期的にコンテンツが届く」ということはそれなりに良いものではないか、と。
東畑開人さんの『ふつうの相談』では、「人が人の話を聞く」ことの価値が提示されていました。たとえ一回の面談の中で抱えている問題が解決しなくても、話を聞いて「じゃあ、また来週」という約束が交わされることで、心に安定感がもたらされることがある、と。
だとすれば、話される言葉が役立つものであるかどうかよりも、「話されている」という空間が安定的に発生することが、むしろ役立つのではないか。そんな風にも思います。
もちろん、このメルマガが来週から「役立つ株価情報」を紹介するようになったらさすがにそれはちょっと違う気はしますが、ある範囲の中であれば何を書くかはそう重要なことではなく、安定的な場を発生させることそのものが価値なのかもしれません。
皆さんはどうお考えでしょうか。よろしければ、ご意見お聞かせください。
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