ノウハウとの付き合い方
ネットの世界というのは便利なもので、以前7wrinerを作ったときも、そのコードのほとんどをコピペでまかなった。自分で一から書き上げた部分はあまりない。検索して、コードを見つけ、コピペして使う。そういうやり方だ。
でも、コピペだけで済むことも、やっぱりほとんどない。ネットで見つけられるコードは、それを公開している人の目的に合わせて書かれているものか、ごくごく汎用的な事例であり、「自分がやりたいこと」にjust fitする可能性は低い。だから、自分の用途に合わせて、いろいろ書き換える必要がある。
その書き換えも、数字を変更するだけの簡単なものから、ガッツリ換骨奪胎するものまでレベルはさまざまだ。
で、その置き換えの割合が大きいほど、スムーズにいく可能性は下がる。なにせもともとのコードを書いたのは自分ではない。だから、どの部分が何を担当しているのかは直感ではわからない。そういうときは、丹念にコードを読み解いていき、必要な部分を見つける必要がある。
結局、コピペだけといっても、まったく手間がかからないわけではない。何かしらの手間がかかるのである。
just fitを調整(adjustment)すること。
並びを調整(arrangement)すること。
そういうことが必要になってくる。なにせ、いろいろ違うのだから。
環境、技能、目的の誤謬
コードのコピペの話は、ノウハウについても一定量言える。
ノウハウの発信者と自分では置かれている環境が異なるかもしれない。有する技能や性質や経験が異なるかもしれない。あるいは、目指している状態、達成したい目標が異なるかもしれない。
だったら、同じノウハウがそのまま使える可能性は低いだろう。
もちろん、発信者と自分が近ければ、簡単に置き換えだけで済むかもしれない。しかし、大きく異なるなら、サンプルのコードから一行だけを持ってきて、それ以外の部分はしぶしぶ──そう、しぶしぶだ──自分で書かざるを得ないのと同じように、一部を参考にするくらいしかできないかもしれない。
しかし、問題は説得力である。
強調されすぎる効能
あるノウハウに説得力を持たせようとするならば、「これはあなたにも効果がありますよ」と訴えかける必要がある。あるいは、私には効果があった→私とあなたは同じ→あなたにも効果がある、という見えない三段論法が用いられる場合もある。言い換えれば、誤謬の可能性を頭に上らせないためのレトリックである。
そのレトリックを、レトリックだと認識して距離を置けるならば構わない。しかし、そうでないのならば大変だ。コピペしたままのコードを使って、「うまくいかない」と悩むことになる。
いや、うまくいかないならば問題は小さい。だいたいこの世界はままならないものであり、うまくいくことの方が少ないはずである。より大きい問題は、コピペしてきたコードの「目的」を正しいものとして、自分が当初目指していたものを虐げることである。
こうなるとなんのためのノウハウなのかがわからなくなる。以前も書いたが、成功法は成功を定義してしまうのだ。その定義が、些細なものならば無視できるが、「自分」に関するものならばどうだろうか。
少なくとも、そのことについて一定量の警戒心を持っている方が良いのではないか。そんな風に私は思う。
どう付き合うか
ノウハウは有用である。それは間違いない。ただ、その付き合い方については少し考えておきたい。
ノウハウは適当にアレンジして使えばいいのだ。
問題は、その「適当にアレンジして使う」ことも、一般的に思われるよりは結構な手間がかかる、ということである。
でもって、そこで鍵を握るのが、「自分に関する知識」だ。拙著では「自分のトリセツ」という言い方もした。
そもそも自分に関する知識を持たなければ、誤謬に気づくことすらできない。なにせ比較すべき対象がないのだから。そうした状況では、「適当に」アレンジすることも難しいだろう。
でもって、そうした知識は、実際にいろいろ試してみて、そこから見出していくしかない。実体験を経ない自分が自分だと思っている知識は、概ね間違いか偏見かのどちらかである。それは、あまり頼りにはならない。
だからこそ、デルタ状の実践でそれを獲得していく。自分の環境や、技能や、目的を確認していく。
と、いうようなことも、ノウハウ書のレトリックを使って書いてしまうと、同じ構造的な問題に陥る。今もし「そうだ。そのようにすべきだ」と感じたのならば、まさにそれが働いていた証拠である。
だからこそ、いつでもどこかに、「でも、そんなことを別にしなくていいよね。自分の目的とは関係ないし」という逃走線を引けることが、一番ギリギリのラインで効いてくるのだと思う。
※この記事はR-styleに掲載した記事のクロスポストです。
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