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第三回:ビオトープ的積読環境のポイント

積読リストを作り、そこにある本を読み進めていくと、閉じた環境に身を置けます。どれだけ外界で情報の濁流がうねりをあげていても、それとは切り離された場所を持てるのです。

つまり、積読リスト(クローズド・リーディング・リスト)は、一種の壁、あるいは防波堤です。

この点について、もう少しだけ考えてみましょう。

ビオトープ的積読環境

積読リストによって情報の防波堤を作るという発想は、永田希さんの『積読こそが完全な読書術である』の「ビオトープ的積読環境」に依っています。

ビオトープ的積読環境とは、情報の濁流とは切り離された「独自の生態系」を築くための「本の積み方」で、まさに本連載で紹介しようとしていることです。

そして、この「ビオトープ的積読環境」という表現は、あくまで説明のための言葉でありながらも、鋭くその本質を表現しています。特に、以下の三点が重要です。

・ビオトープは地続きの空間である
・ビオトープは中に独自の生態系を持つ
・ビオトープは隔離されてはない

まず、ビオトープは生物群集の生息空間を意味しますが、それは一つにはコロニーや地下世界のように、その他の生物空間とまったく別の場所にあるのではなく、地続き的に同じ地平線にあることを意味し、もう一つには、一定の大きさを持つ空間であることも意味します。

次いで、ビオトープは、その空間の中に独自の(つまり他の生物空間とは異なる)生態系を持ちます。正確には、ビオトープは「周辺地域から明確に区分できる性質を持った生息環境の地理的最小単位」であり、そこに生物群集が加わることで「生態系」が構成されるのですが、ここではそれを換喩的に捉えておきましょう。「ビオトープは独自の生態系を作りうる」ので、「独自の生態系」の代名詞として使う、ということです。

最後に、とはいってもそのビオトープは外界と完全に隔離されているわけではありません。「周辺地域から明確に区分できる性質」を持っていることは、その性質を無視すれば周辺地域と統合しえることも意味します。いわば、外界とまったく無関係ではなく、外界の影響は受けるものの、しかしそこに独自性が確立されている、という空間がビオトープです。

閉じるけども、閉じすぎない

クローズドなものは、徹底的に閉じ切ってしまうのが良いと考えてしまうのは、デジタル的であり二項対立的な(いわば西洋風の)考え方です。

しかし、クローズドであっても、そこから「溢れ出て」くるのはそんなにいけないことでしょうか。逆に、わずかばかり「流れ込んでくる」ことも絶対に拒絶すべきことでしょうか。

たとえば、そのような「ビオトープ」があったとしたらどうなるでしょうか。水は濁り、酸素は足りなくなるのではないでしょうか。風は吹かず、新しい種子も運ばれてこない。そのような空間は、短期的に楽園として存在できても、長期的な存続は難しいのではないでしょうか。

私たちはデジタル部品ではありませんので、少しでも隙間が空いていたらクローズドとは言えない、という定義主義に固執する必要はありません。むしろ、そのようなかすかな流入があるからこそ、「水が濁らない」のだと言えます。

つまり、外界の情報をまったく摂取せず、ただ自分が作ったリストに固執してしまうのは、短期的には良くても長期的には悪影響が考えられる、ということです。興味が、偏ったベクトルで固まってしまうのです。

だから私たちは、クローズドなリーディング・リスト(積読リスト)を作りながらも、そのリストが閉じすぎないように気をつける必要があります。外界の情報の濁流は、門を閉めざるを得ない状況に至っていますが、流れ込んできた新しい生命の源を取り逃がさないためには、ときにその門を開けなければなりません。

壁ではなく膜

その意味で、積読リストによって生成されるものは、壁や防波堤という硬い構造物ではなく、むしろ膜や境界線のようなゆるやかな仕切りのようなものだと言えるでしょう。むしろ、その柔らかさを持っていないと、知識は増えるけれども、考え方は硬くなってしまうおそれがあります。それは、しなやかな生き方とはほど遠いものです。

私たちは、閉じこもるために生きているわけではありません。閉じこもりながらも、外界と作用しあうことの中に生は存在します。

(つづく)

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