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知的生産のフロンティアについて考える(1)

国立民族学博物館で開催されている企画展「知的生産のフロンティア」に出かけてきた。梅棹忠夫の生誕100年を記念した企画展だ。

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2011年に開催された「ウメサオタダオ展」よりも規模は小さく、そちらで見かけた展示もいくつかあったが、今回は梅棹の「情報カード」が電子上に配置されたデジタル・データベースが華々しく飾られていた。

彼が書いた情報カードがスキャンされ、それがディスプレイ上に大量に並んでいる。好きなものにズームすることもできるし、横矢印で一枚一枚読んでいくこともできる。テーマによってタグ付けされたカードを抽出することすら可能だ。素晴らしい。

でも、なんだか物悲しい気持ちにもなってきた。その気持ちを自分自身で決着させることが本記事の目的である。

誰がためのカードシステム

悲しい気持ちのおおもとは、それだけたくさん収集された情報カードがあっても、肝心の「主」がどこにもいない、という点に関係している。

たしかに梅棹の研究はすばらしく、スケッチは詳細で、着想は独創的だろう。しかし、それらを集めたデータベースは、梅棹自身の研究のためにある。決してそれは、私のためではないし、それ以外の人のためでもない。少なくとも、それらの「情報カード」から、私の知的生産が始まることはない。たんに、「ほ〜、すごいな〜」と思うだけである。

同じことは、公開されたニクラス・ルーマンのデジタルカードを読んでいても思う。歴史的資料としての価値はあるだろうし、ルーマンの研究者なら垂涎ものだろうが、それ以上でもそれ以下でもない。

情報カードは、単に本の内容を書き写したものではない。それらの一次資料に対して、カードシステムの主が発想したこと、着想したことを書きつけ、自分の研究を発展させていくため、思想を育んでいくためのものだ。

もし、それが単なる一次資料の保存であれば、それはパブリックに役立つことであろう。結局のところ、それはミニチュア版の図書館なわけだから。しかし、情報カードはそうではない。少なくとも、知的生産活動で作成する情報カードシステムはそういうものではない。

研究主に奉仕するために、そのシステムは存在している。だから、他人のシステムは、私の役には立たない。その当人がいないことには発展しない。「それ以上カードが繰られることも、新規作成されることもない情報カードシステム」は、ある意味で、知的生産の終着点である。少なくとも、フロンティアではないだろう。

多重の技術

だからといって、展示されているデジタル・データベースが、私の書斎に即座に導入できるかと言えば否だろう。それに、大きめのディスプレイがないと、どうにも使い勝手が悪そうだ。

情報を扱うことを仕事をしている私ですら導入できないのだから、広く一般市民には到底無理だろう。それが、悲しい気持ちのもう一つの源だ。

梅棹は、『知的生産の技術』の中で、情報を扱う技術を「社会に参画するためのもの」だと捉えた。だとすれば、その技術は広く市民に開かれているべきだろう。研究をなりわいとする研究者だけでなく、情報社会を生きる市民が、誰でも当たり前に使えるようになること。それが、知的生産の技術の目指すべき到達点であるはずだ。別の言い方をすれば、「研究」に関わる知的作用を、情報市民の中に浸透させること。研究を、開くこと。研究者とそうでない人間の線引きを、できる限りあやふやにしていくこと。そうした活動こそが、「知的生産の技術」においては必要だろう。

一体、それはどの程度進んでいるだろうか。

ツールの躍進は目覚ましい。インターネットを契機として、私たちはさまざまな情報にアクセスできるようになった。信頼の置けないノイズまみれの記事も多いが、有名大学の講義を動画で閲覧もできる。使う人が、適切に使えば、素晴らしい情報ハイウェイが広がっている。

情報を扱うツールでもそうだ。Evernoteを皮切りに、ここ10年で個人が無料で(あるいはそれに近い金額で)使えるツールの選択肢は広がった。単に種類が多いだけでなく、高機能化も進んでいる。一昔前なら、相当面倒だった作業が、ほとんど自動で実現できているものも少なくない。

Evernote,Notion,Scrapbox,WorkFlowy,Dynalist,Roam Research……

このような選択肢の拡大は、祝福すべき事柄だろう。一方で、それを扱う私たちの技術はどうだろうか。それは、どこまで躍進を遂げているだろうか。

たしかにTak.氏などによって「シェイク」のような技法が草の根的に提唱されてはいるが、まだそこまでの知名度は得ていない。むしろ全体的にはいまだに、「原稿用紙に一文字ずつ文章を書いていく」のような技術が支配的なのではないだろうか(私の認識違いであって欲しいが、身の回りを見る限りは悲観的である)。

梅棹が提示した「カード法」は、情報をatomicに扱うための方法論であり、それは一直線にデジタルツールへと接続している。時系列のノートから情報を開放し、新たな情報同士のつながりを模索することは、そのまま「ハイパーリンク」の考え方につながっている。その考え方に沿って進めば、「脱原稿用紙」へと向かうはずだが、どうもそうなってはいない。実に不思議だ。

一つには、リニアなものとネットワークなものを接続するための哲学・思想がまだ十分に育っておらず、どちらかを選ぶならリニアを選ぶ人が多いからかもしれない。あるいは単に、義務教育でそう教わるからかもしれない。

どちらにせよ、その点においては情報を扱う技術はまだ十分ではない。ツールはあるが、ノウハウの普及が追いついていない。そんな印象を受ける。

フロンティアの風景を想像する

「フロンティア」(frontier)とは、新天地でもあり、最前線でもある。

王のいなくなった宮殿やアナログに閉じこめられた情報は、もちろん最前線ではない。

では、知的生産のフロンティアでは、どんな風景が広がっているのだろうか?

それを想像し、解き明かすことは、現代の知的生産者に課せられた宿題であろう。少なくとも、この技術が途絶え、情報に押し流され自らそれを生み出すことができない人たちが支配的になることを願っていない限りは、この宿題は避けて通れないように思う。

だからこそ、あらためて知的生産のフロンティアとは何かを考えてみたい。

(つづく)

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