素直な学びの姿勢

※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです。

成長する人は、どうやら素直でなければいけないらしい。

成長する人としない人のたった一つの差
https://note.mu/iwasakinatsumi/n/n0eae961f744e

素直さの話
https://note.mu/sadaaki/n/ncc06bf90d86b

たいへん残念だ。

こういう書き出しを使うことからもわかるように、私は素直でない。へそ曲がりで天の邪鬼である。心の在り方を平面上に投射したとしたら、確実に直線以外の形になる。

唯一の救いと言えば、パンドラの箱に残された希望のように、自分が天の邪鬼であることを認める程度の素直さは残っている、というぐらいだろう。それだって、何の助けになるのかわかったものではない。

そんな天の邪鬼な私だから、「素直な人が成長する」という言説にも、ちょっと疑いを持ってしまう。別に誰かにいちゃもんをつけたいわけではない。癖みたいなものだ。

単純に考えて、猜疑心が学びにおいて邪魔になることは理解できる。それはそうだろう。では、私みたいなへそ曲がりは、決して成長できないのか。それを考えてみたい。

まず、分けて考えてみる。素直さという性質と、素直に学ぶ姿勢という二つに分離する。

素直な人は、当然のように学ぶ姿勢も素直である。

だから、まっすぐに教えを吸収する。この辺りのメカニズムはハックル先生がおっしゃっていることにまったく同感である。自分が理解し得ないものを理解するためには、初めは「信じる」という態度が必要である。素直な人は、それがデフォルトなのだから、何も問題ない。

でも、必ずしも根っこの部分が素直である必要はないと思う。つまり、学びの姿勢が素直であればよいということだ。さらに考えると、別段素直である必要もない。

ようは、自分の価値観を超えるものを受け入れられるかどうか、という部分が肝なのだと思う。

根が素直な人でも、「私のこのやり方は完全完璧である。誰がなんというと、パーフェクトだ」と思ってたら、他の人の方法など意に介さないだろう。

逆に、私みたいなひねくれ者でも、「このやり方はまだまだ。何か他にあるかもしれない」と考えていれば、他の人が提示した方法を、「まあ、騙されたと思ってやってみるか」とチャレンジすることもありうる。

両者は、方法に対する「信じる」度合いが違うので、もしかしたら学びのスピードみたいなのは違ってくるのかもしれない。でも、「自分の考えをいったん保留しておいて」という態度は同じである。

でもって、それこそが学びにおける要ではないだろうか。

後者のような態度は、ようするに「実験思考」なのだ。

現状存在している方法(自分の方法も含む)を、真理ではなく仮説として扱う。あるいは便宜的な常識として扱う。だから、そのバージョンアップを厭うことはない。むしろ、それを望むのだ。

もしかしたら、前者も後者も端から見れば同じような性質に見えるのかもしれない。でも、やっぱりどこかは違う部分があるように思う。

特に守破離の、離の部分で違いが出てくるだろうと、私なんかは勝手に想像しているわけだが、どうだろう。

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