自分の仕事をどう考えるか / ツールの乗り換えについて
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/10/04 第573号
○「はじめに」
Amazonのカスタマレビューを覗いていると「そんなこと言わなくていいっていうか、もう本の内容関係ないよね」と思わずつっこみたくなるコメントを高い頻度で見かけます。
たぶん本を読んでいるときに「思った」ことがあって、それをついつい書いてしまった、という状況なのでしょう。「一言いわずにはいられない」状況というのはたしかにあるものです。
リアルの空間というか、会話の中であればそういう発言をしても、(録音でもされていなければ)残ることはありませんし、TwitterなどのSNSに投稿しても(意図的に検索しない限りは)流れていって、時間と共に見えなくなります。
一方でその場所がAmazonだった場合は、話が変わります。恒久的にFixされる上に、ものすごくたくさんの人の目に触れることになるのです。
おそらく、そういうコメントは数万人に向けて声高に主張したかったものではないでしょう。なんだかちょっと「言いたかった」だけのはずです(なにせ本の内容にはほとんど関係ないのですから)。
でも、それが永遠に固定されてしまう。そして、多くの人の目に晒されてしまう。それはやっぱりちょっと怖いことですし、不幸の種にもなってしまうのでしょう。
〜〜〜深い理解〜〜〜
以下のツイートを見て、とても面白く思いました。
連ツイートを辿っていくと、「DoMA」式への言及が出てくるのですが、まさしく私が考えているDoMAがそこにはありました。
私も何度かに分けてDoMAについては書いていますが、まだ全体をまとめて論じたことはないので、たぶん他の人にはあんまり伝わっていないだろうなと予測していたのに、もう十分にしっかり伝わっています。
たぶんこれは、私の説明が上手かったというのではなく、受け手の中にDoMAを理解するモデルが確立されていて、そこにこの方式(および名前)がうまく合致した、ということなのでしょう。
こういう不思議なことが起こるのが、文章の(あるいは情報発信の)面白いところです。
〜〜〜ポストGTD〜〜〜
上記の「DoMA」は、情報整理の新しいスタイル(思想で言えばポストモダン的な情報整理のスタイル)なのですが、それと同様に、私の頭の中には「ポストGTD」とでも呼べる情報整理の手法が徐々に立ち上がってきています。もちろん、DoMAと親和性のあるモデルです。
ただ、まだぜんぜんそれを言語化できていませんし、何が要点なのかも見定まっていません。コアが何なのかが、自分でもわからないのです。
でもその「考え方」は伝えるに値することだと個人的には感じています。ある時期、ライフハックの情報を摂取した人が頭の中に作り上げたGTD的メンタルモデルを、ぎゅぎゅっと「逸脱」させる手法になってくれると期待しています。
まあ、書かないと始まらないわけですが。
〜〜〜ツール作り〜〜〜
またまた自作ツールを作っています。周期的にそういうものを作りたい病に罹患するのです。
で、このツールについてはまた回を改めて紹介するとして、こういう自作ツールを作ることそのものの「良さ」というのがたしかにあります。
もちろん面倒ではあります。すでに存在しているツールを使えばごく簡単にできることを、いちいち自分で実装しなければなりません。手間のかかる作業です。
しかし、その段階を通り過ぎると、急激に面白さが上昇します。自由自在にカスタマイズしていけるようになるのです。
一方で既存のツールは、入力し整理するくらいまではほとんど手間なくやっていけますが、あるレベル以上のカスタマイズを意図すると急激に面倒さが上昇します。あるいは「この部分はカスタマイズ不可能」という部分に遭遇することもあります。
そうなると、諦めにも似た気持ちを抱えてそのツールを使っていくことになります。
もちろん、それはそれで良いのですが(主に有限性の点において効果を発揮します)、やっぱりそれとは別のアプローチを確保しておきたい、という気持ちも拭えません。
「高機能」なツールを目指すならば、提供されているツールを使うのが一番でしょうが、そこまでのものが必要でないならば、自分で作ってみるという手はあるでしょう。でもって、現代ではそれがすごく簡単に(あるいは入門しやすく)なっています。
あとはチャレンジする気持ちがあるかどうかです。HTMLとCSSを知っているならば、JavaScriptを学ぶだけで結構いろいろなことができますし、Pythonなどは無料の教材も豊富です。
でもって、おそらくですが、デジタル時代の知的生産の技術は、そうした「カスタマイズ/自作ツール作り」までも射程に入ってくるのでしょう。
〜〜〜疲れたら休む〜〜〜
ある朝起きたら、体がものすごく疲れていることに気がつきました。そこで「今日は最低限のことだけをやって、あとはゆっくりしよう」と決意したのですが、作業に着手しはじめてみると、先ほどまでの感じていた「疲れ」が吹き飛びます。おそらく「作業興奮」と呼ばれているような現象でしょう。
とは言え、そのときは興奮して疲れを感じていなくても、肉体的な疲れが残っている可能性はあります。というか、ずいぶん高い可能性があります。
そこでその日は、作業の高揚感を無視し、最低限の作業だけを終わらせて、後はのんびり別のことをしていました。
たぶん2年前ならば、そのまま「よし、行ける」となって作業を続けて、さらに疲れを貯めていたのでしょう。そういうことをしなくなっただけでも、ずいぶんと成長したものです。
〜〜〜DTE〜〜〜
「アウトライナーを別の名前で言えないかな〜」ということをずっと考えているのですが、あるときひらめきました。
Dynamic Treeing Editor.
これです。最初に頭にあったのは「Dynamic」という単語で、これは外せないだろうと思っていました。
では、何が「動的」なのかと言えば、構造なのですがそれではあまりにも範囲が広すぎます。そこで「どんな構造か」と考えたときに、「ツリー構造だ」と思い至り、最初はTreeとしたのですが、Dynamic Treeとしてしまうと、「動的な木」となって、自分の足で動く樹木モンスター的なイメージが出てきてしまうと思い立ち、Treeingとしました。辞書で引いてみると、Treeは動詞の意味もあるのです。
これで、「Tree」を作る行為を、「動的に行える」という意味が形成できます。
あとは、3つ目の単語なのですが、これまでの流れを組むと processor がまず思い浮かぶのですが、問題が二つあります。一つは、日本語では「プロセッサー」という言い方をあまりしません。「ワープロ」は「ワープロ」として認識されていますし、単にプロセッサーと言えば、中央演算処理装置(CPU)が想像されます。
唯一「フードプロセッサー」が、省略されずに使われる「プロセッサー」ですが、逆に言えばその領域でしか使われていないことになります。つまり普及しているとは言い難い名称です。
それだけではありません。processor という単語を当ててしまうと、頭文字三つの省略がDTPとなって、別の言葉の省略と非常に混同されやすくなるのです。よって、これは却下。
そうなると、パソコン系で何かしらを編集するツールのイメージで一番普及しているのが Editorという言葉だろうと思い、それを当ててようやく完成です。
正直、 Editor に関しては要検討という感じはしていますが、前二つの単語は個人的に良い出来栄えだと思います。
もちろん、他にもまだまだ呼び方の可能性はあるでしょうから、探索の根は広げていきたいところです。
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。
Q. Dynamic Treeing Editor のEditor 以外に何か当てる単語があるとしたら、どんなものが思い浮かびますか。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。10月は気ままにエッセイを書いていく予定ですが、その一部は「僕らの生存戦略」という大きなコンテンツの一部になるかもしれません。そういう「つもり」を少しばかり持って書いていきます。
○「自分の仕事をどう考えるか」
少し昔話をしましょう。
高校生のとき、私には特になりたい職業がありませんでした。憧れめいたものはほとんど何も持っていなかったように思います。
ただし、一つだけ強い願いがありました。欲望と言ってもよいでしょう。
「会社員になりたくない」
家庭環境のせいだったのかもしれません。あるいは、昔から反骨精神が強すぎて、「あたり前」とか「普通」に尋常ならざる拒否感を覚えていたのかもしれません。原因はなんであれ、ともかく普通に高校を出て、なんなら大学に行って、そのまま会社員になるという「レール」に乗るのが嫌だったのです。
でもって、それさえ回避できるならば、「なんでもいい」と思っていました。これはまったくの事実です。特定の目標地点への憧れではなく、拒否感を覚える対象への否定であればAll OK。そんな感覚があったのです。
だから一般的にあまり「貴く」思われない職業も選択肢でした。だいたいにして会社員にならない場合は、職能を持ち職人的に生きていくか、金融資産に働いてもらうか、ギャンブルで生計を立てるかの選択になり、何の能力を持たない若人にとって、三つ目の選択は非常に「安易」に選べることは間違いありません。
だから、パチプロとか雀ゴロ(雀荘に入り浸ってお金を稼ぐ人)とかも結構真剣に考えていましたし、競技麻雀のプロだとかハスラーだとかも検討していました。バーテンダーの勉強もしましたし、株式投資も勉強しました。プログラミングに手を出したのも、その一環です。
少なくともそうした選択肢のうちで、プログラミングが一番「まっとう」な選択肢だったのでしょう。私はゲーム好きなので、プログラマーというよりはゲームデザイナーに憧れていたのかもしれません。でもって、その場合でも、「自分でゲームを作ることができれば、会社員になる必要はない」と、かなり甘いことを考えていました。抹茶クリームフラペチーノくらいに甘い考えです。
きっとそれ以外にも、思い出せなくくらいの「選択肢」を若いときの自分は検討していたと思います。それくらいに本当に「なんでもよかった」のです。
でも、面白いのは、そうした選択のうち、唯一と言ってもいいくらいに候補に上がっていなかったものがあります。それが「文章を書いて生きていく」という選択肢です。まさに、今の私がやっているその選択肢は、まったく頭には浮かんでいませんでした。
いや、浮かんではいたのかもしれません。でも、早々に「無理だし」と結論づけられ、却下されていたのでしょう。だから、プログラミングのように、「小説を書くこと」を勉強して、その技能を上げようなどと考えたことは一度もありませんでした。
そういう人間が、文章を書くことを生業としているのですから、人生とは面白いものです。
"あなたの想像力よりも、人生の可能性の方が広いのです"
と、拙著『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』では書きましたが、その言葉はこうした実感からやってきています。
■当然の帰結
しかしながら、これはそこまで「面白い」話ではないのかもしれません。むしろすごく真っ当な帰結である気がしてきます。どういうことでしょうか。
まず私は本を読んでいました。いわゆる文学に手を出したのは高校生からですが、それ以前はミステリやライトノベルなどの軽い小説を読んでいました。漫画に至っては、よくわからない数を読んでいました。経験の蓄積があったわけです。
書く方も同様です。ワープロ専用機を中学生でゲットし、習作とも呼べないような小説をたくさん書いていましたし、高校生では原稿用紙にボールペンでカリカリとショートショートを(授業中に)書いていました。これまた経験の蓄積がありました。
そうした経験を持つ身からすると、「自分が書く小説」などダメダメだということがわかります。「お金をもらえる作品」を作ることなどできず、それはつまりプロにはなれないことを意味している、ということが理解できます。だから、自分の将来の選択肢に「文筆家」が入ってこなかったのです。
■それでも続けるもの
一方で、プロになるという選択肢は消えていても、私は文章を書き、本を読みづつけていました。単純に好きだったからです。
そうやって続けるうちに、私の文章力は少しづつ向上していたのでしょう。語彙が増え、構成パターンの引き出しが増加し、比喩と概念の扱いが向上していたのだと思います。
しかし、そんな実感はありませんでした。なぜなら、さらにたくさんの本を読み、私の文章の審美眼も上がっていたからです。だから、「自分は文章を書くのが得意である」という感覚を得ることはありませんでした。少なくとも苦手ではないし、ここまで続けているのだから好きなことなのだろうけど、「得意なこと」ではない。そんな感覚を持っていました。
だから、私が一番最初に「本を書きませんか」と出版社さんにお声かけいただいたときは、嬉しさよりも困惑の方が大きかったかもしれません。「えっ、自分みたいなのが本を書いていいんですか!」という困惑です。
世の中には、そうしたタイミングで「ようやく来たか」と準備万端で迎え入れられる人がいらっしゃるのかもしれませんが、私はそうではありませんでした。
でもって、そのような困惑はいまだにゼロにはなっていません。今でも、心のどこかには「なぜ自分みたいなのが本を書く仕事ができているのだろうか」という思いが鎮座しています。
■自分の仕事を選ぶこと
そんな自分の体験を振り返ってみると、「自分の仕事」を選ぶ難しさが想像できます。
まず、その分野の経験がなければ、そこでやっていくことはひどく簡単に思えて、自分でも大成できるような気がします。ギャンブルのように学歴が必要ない分野なら、さらに簡単そうに思えます。魅力的な選択肢として立ち上がってくるのです。
*昨今のWebで「成り上がる」系の話もこれと同じでしょう。
一方で自分が親しんでいる分野は、そのような甘い幻想が立ち上がりません。その分野の厳しさも知っていますし、プロとして通用する水準の高さも知っています。「そんな簡単にはいかないだろう」とか「自分には無理だろう」と判断しがちになります。
しかし、その判断が見過ごしているのは、たとえ「自分はたいしたことがない」が真であっても、他の人たちに比べれば、身についている経験や技能はぜんぜん高い、という点です。無論それだけで、プロとしてやっていけるわけではありませんが、技能ゼロの分野にチャレンジするよりは、はるかに前の地点からスタートを切れることは確かです。でも、その天秤はうまく見えてきません。得意な分野ほど、自分より優れた人と自分を天秤に乗せてしまうからです。
よく「得意なことを仕事に」と言われますが、その人が本当に得意なこと(得意だと思っていることではなく)は、そもそも自分で「それが得意」だと思っていない可能性があります。あまりにも自明にできてしまう上に、もっと高いレベルの比較対象を持つからです。
逆に自分が得意だと思っていることは、単に高いレベルを知らないだけなのかもしれません。そういう状態でそれを「仕事」にしてしまったら、ひどく打ちのめされてしまうことが起こるでしょう。
よって、「得意を仕事にする」は、指針としては正しくても、実践の段階では躓くことがあります。実に要注意な指針です。
■好きなこと
では、「好きを仕事にする」はどうでしょうか。
たしかに「好きなこと」と「嫌いなこと」の二つから仕事を選べるなら前者から選びたいものです。選択肢が広がっている現代なら、そうした幸運な選択が可能な人もいるでしょう。
しかし、問題もあります。
そもそもそれを選べる立場にない、ということ以前に、自分の「好きなこと」がわかっているのかどうかが判然としないのです。
ある時点で把握している自分の「好きなこと」はその時点での「好きなこと」であって、全人生における「好きなこと」の総体ではありません。さらに、それを仕事にしたことによって「好きなこと」ではなくなってしまう可能性すらあります。「憧れてこの仕事についてみたものの、思っていたのと違った」という経験はごく普通に起こり得るでしょう。
それに「好きなこと」を仕事にしてみたことろで、「好きでないこと」をまったくやらないというわけにはいきません。事務仕事、人間関係、競争、教育、創作、……、あらゆる仕事にはあらゆる側面があります。「これだけやっておけばよい」というのは夢物語でしょう。
私も「書くこと」は好きで、毎日楽しく仕事をしていますが、それ以外のさまざまな「雑事」(あえてこう表現しました)にも追われています。避けることはできません。
その上、その「書くこと」に行き詰まることすらあります。「好きなこと」をやっているからといって、万事順風満帆とは行きません。ごく普通にトラブルやミスは発生し、その度ごとにやきもきしてしまうのです。
これが特に好きでもないことなら、「まあ、いいか」とあっさり割り切れたりするでしょう。しかし、その対象を好んでいるがゆえに、そうした逃避ができない問題があるのです。
ですので、「好き」成分が仕事に含まれているのは全体的によいとしても、「好きなことを仕事にすれば万事うまくいく」と考えていたら、あとあと手痛い目にあってしまうでしょう。
(下につづく)
ここから先は
¥ 180
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?