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思考の根を伸ばし、葉を広げる ブックマークレットの作り方その5 一行日記、読書日記

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/08/22 第619号

「はじめに」

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〜〜〜ポッドキャスト〜〜〜

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百十一回:Tak.さんと知的生産に興味がある人のエッセイについて 作成者:うちあわせCast

今回は、最近倉下が考えている「ノウハウ書の書き方」をテーマにお話しました。ちなみに、このテーマは物書きの仕事をするようになってからずっと考え続けております。

〜〜〜昔の仕事ノート〜〜〜

最近、ちょこちょこと部屋を片づけています。すると、古くて懐かしいものがいろいろ発掘されます。たとえば、以下のツイートはコンビニ店長時代の「仕事ノート」を発掘したときのものです。

2009年が、どういう時代だったのかはもう思い出せませんが、ノートパソコンがあったにしても巨大で動作が遅く、機動力が求められる状況ではうまく使えなかったのででしょう。だから、手書きのノートをよく使っていました。

ついでに言えば、手書きノートの場合、文章+数字+表組みを簡単に混ぜられる上に、写真や書類を貼りつけることも容易です。表現力が多彩なわけです。

もちろん、Wordでも同じことはできますが、その手間ときたらルービックキューブを解いている方がマシなくらいです。さすがに現代のWordはもっと簡単になっていると思いますが、当時のWordでそうしたことをやろうとするのは、ガイドブックも持たずにジャングルの奥地に出かけるくらい無謀な行為だったのです(おおげさ)。

ともあれ、店長時代はパソコンも使いながら、並行して上記のような仕事ノートをよく書いていました。一日では済まないような「仕事」については、だいたいノートに書き、そのプロセスを追いかけ、データを記録していたように思います。

私に店長という職種の才覚がどれくらいあるかはわかりませんが、それなりに仕事ができていたのは、そうしたノートの助けによるところが大きいです。ノートなくして、仕事なし。それくらい言っちゃてもいいくらいな気持ちがあります。

〜〜〜読了本〜〜〜

最近、二つのサッカー漫画を読みました。『アオアシ』と『ブルーロック』です。どちらも、青年がサッカーに明け暮れる作品なのですが、趣がずいぶん違います。

『アオアシ』はチームプレイ主体で戦略やラインの作り方に主眼が置かれ、『ブルーロック』は徹底的なエゴと武器を持つFWの育成に主眼が置かれています。ほとんど両極端とも言える位置づけです。

これはポジションによって、適切な「思考法」が異なるという話なのかもしれませんし、「チームを大切にする物語」と「強力な主人公を主軸にする物語」の差異なのかもしれません。具体的な理由は、サッカーに詳しくないのでなんとも言えませんが、ここまで反対の作品が描かれていること自体が興味深くあります。

さらに言えば、こうして異なる作品でありながら、主人公の特性が「視野の広さ」という点で共通しているのも面白いものです。この辺も、現代的な状況について示唆がありそうです。

ちなみに倉下は『アオアシ』の方が好みです。皆さんはどうでしょうか。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップにでも考えてみてください。

Q. 強力な主人公が一人で問題解決していく物語が好みでしょうか。それともチームプレイで難局を乗り越える物語が好みででしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、Scrapbox知的生産術の最後の回と、二つのエッセイをお送りします。

「思考の根を伸ばし、葉を広げる」

考えたことをカードに書き、それを読み返し、また考えたことを書く。

そのような営みは「思考の根」を伸ばしていく行為だと言える。直接は日の目を見ない、地面の下で行われる営みだ。

そうした営みが「知的生産」を支えていることは間違いない。しかし、それだけでは知的生産は達成できない。なにせ知的生産とは「ひとにわかるかたちで提出すること」なのだ。自分の考えを、地面の下ではなく地面の上に出してこそ知的生産は達成される。

■何のためにでもなく

そうした行為は、自分の成果を誰かに誇るためのものではない。もちろん、他人を傷つけるための行為でもない。もっと言えば、自分の考えを「ひとにわからせる」ためでもない。

提示した情報をどのように受け取り、解釈し、利用するのかは、すべて情報の受け手次第だ。私たちは「このように利用してもらいたい」という思いに沿って情報を整理はできるが、情報の受け手まではコントロールできない。情報がどう利用されるかは、最終的に書き手の裁量にはないのだ。

だからあまり強く「何のためになのか」は考えない方がいい。少なくとも、その問いに一般的な(あるいは真理と呼べる)答えは求めない方がいい。それは人それぞれ異なるからだ。「こういうものを書かなければならない」という制約はどこにもないのである。

単に自分が何か新しいことを考えた。それをそっと他者に差し出す。それくらいの感覚で良い。まるでつくり過ぎた煮物を近所の人に渡して回るような、そんな感覚で十分だ。

それくらいの気負いのないところからスタートした方が、きっと続けやすいだろう。

■閉じこもることの弊害

そうした「おすそ分け」を一切行わない、というスタイルもないわけではない。根っこを伸ばすだけ伸ばして、幹や枝を伸ばさない。つまり、日々ノートは書くが、しかし外に向けて発表は行わない、といった態度だ。

しかしながら、木々が根っこだけでなく、葉からも栄養を生成しているように、私たちの知的活動においても発表することには大きな意義がある。むしろ、そうした活動からでしか得られない「養分」というのがたしかにあるのだ。

まず、自分の考えを他人に伝えようとする中で、自分の考えが整理される動きがある。言葉は文脈の上に生成されるのであり、そうして生成された文脈が思いも寄らなかった考えを繋げてくれる効果もある。

それだけではない。他の人に読まれ、得られたフィードバックが自分の考えに返ってくることもある。それはときに暴力的な嵐のこともあるが、恵みの雨であることも少なくない。

もし、そうした外的な「栄養」がいっさいない状態であれば、どれだけ元気な根でも広げられる範囲は限定されてしまうだろう。自分の思考が小さく、そしてすごく偏った状態でまとまってしまうのだ。

これは非常に危険な状態だと言える。単に「考えることが小さいね」という話だけでなく、強い偏見の塊になってしまうのだ。

「別に強い偏見があっても構わないではないか」

という割り切りもあるだろうが、個人的にはその意見には懐疑的である。凝り固まった偏見は、当人の精神をむしばんでしまう。怒りの閾値が下がったり、むやみに攻撃的になったり、得られない満足感を求めたりと、良いことはほとんどない。

そうした精神状態に突き進むために「考えを育てたい」と思っているならば、それ以上かける言葉は持ち合わせないが、おそらく「考えを育てたい」という欲求があるならば、そうした状態を避けたいと願っているのではないだろうか。だとしたら、凝り固まった偏見の塊はぜひとも避けたい。

人間が偏見を持つことは避けられなくても、それを少しでも解きほぐすことはできるはずである。そして、土を柔らかくするためには、水や空気が必要なのである。

■良き影響を

最後にもう一つ、自分の考えを発表することは、ごく単純に「他人の役に立つ」。あるいは「他人の役に立つことがある」。

私たちの脳は、外界から情報を取り入れながら学んでいく。赤子はさまざまなことができるが、しかしほとんどのことを知らない。大人になった人間が何かを考えられるのは、彼らの内部から知識が生成されたからではなく、多くのことを外部から学んだからである。

そうした学びは、「よし学ぼう!」と意識的に学習したものに限らない。普段見聞きする情報全体から、私たちは少しずつ何かを学んでいる。そうして学んでいることすら意識に残らないことすら珍しくない(そういう状態を「影響を受けた」などと呼ぶ)。

私たちは、多くの他者に影響を受けている。そして、自分もまた同じように他人に影響を与える存在なのだ。「そういう存在にならないようにしよう」などと決意しても無意味である。人はただ存在しているだけで、他者に存在を与える。もっと言えば、かつて存在し、今は存在していない人間ですら、他者に影響を与える。

この世界は、そうした関係のネットワークの中にあり、自分もそのノードの一部なのである。

だから、こう考える。「同じ影響を与えるなら、少しでもプラスになるものを、あるいは良きものを」と。

本当にそれは些細なことでいい。なんなら「見当外れ」なことでも構わない。結局のところ、そうした価値判断を行うのは情報の受け手であるからだ。

たまに子どもの純粋無垢な意見から新しい発見をする科学者の姿が漫画などで描かれるが、それが可能となるのはもちろん「闊達な科学者」がそこにいるからだ。もしその科学者が固定観念にまみれていたら、子どもの意見など聞く耳を持たなかっただろう。

情報を活かすも殺すも、受け手次第なのだ。

だから、こちらから「すべて」を心配しても仕方がない。自分は自分でできる精いっぱいのことをして、後は受け手に任せるしかない。

つまり、状況を「支配」しようとするのを止めるわけだ。

自分にできることは、より良きものを生み出そうとする姿勢を維持することだけである。そして、それをどれだけ努力しても、自分が望む結果を得られる保証はない。それはアウトオブコントロールなものだからだ。

植物は根を伸ばし、枝を広げていく。もちろん、日の当たりやすい場所を求めて枝を広げていくという「他者との関係」を考慮することはあるだろうが、それだけだ。植物は自分のところに陽が当たらないことについて太陽を恨んだりはしない。自分の功績を誇って、他の植物とは別様に扱われないことを憤ったりもしない。

単に、自分がやることをやるだけだ。

「考えを育てること」も、そうした行為の一環として捉えるのがよいだろう。

■支配しないやり方で

Scrapboxを使ってデジタルカードシステムを構築する上でも、「支配」(あるいは統治)をしない、という考え方は非常に重要である。

最初に大分類を作り、その通りに情報を配置していく行為は、ずいぶんと気持ちがよいものだが、もしかしたらそれは昔の貴族が自分の領民たちを整列させたときに感じていた気持ちよさと似ているかもしれない。

むろん、そうした「整理」が必要な場面はたしかにある。任務の遂行には、情報が整然と並んでいなければエラーが多いだろう。そういう局所的な管理は、実務上要請される。

しかし、知識や情報に関わる全てを、あるいは生きることに関わる全てを、同様に管理するのは無理がないだろうか。そうした全体的な管理を「統治」と呼んで、局所的な管理と区別するならば、私たちは「管理はすれど、統治はせず」という新しいテーマを掲げることができるだろう。

個々のカードの中身はそれなりに管理される。しかし、その全体に関しては統治しない。制約や制限を設けずに、自由に発展していけるようにする。

そんなコンセプトが、大切だろう。

■さいごに

以上、かなり長くなったが、Scrapboxを使った「考えの育て方」について書いてきた。基本的には、梅棹忠夫からの伝統的な「カード法」をデジタルツールで実装する、という話なのだが、それに付随してさまざまな話題が出てきた。

加えて言えば、Scrapboxの特性として「複数人での運用がやりやすい」という点があり、これは「考えを育てる」上でもきわめて重要なのだが今回の連載では割愛した。

その他、Scrapboxの操作方法についての説明が不足している点も多いだろうし、私の検討が足りていない記述もあるかもしれない。そうした部分についてご指摘いただければ、ありがたい。

最終的には本連載をまとめて一冊の電子書籍にする予定である。本連載を書いてみて、自分なりにいくつかの整理もできたので、書籍版では構成が大きく変わっているかもしれない。請うご期待である。

(終わり)

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