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第五回:正解のない本の読み方

「紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない」 ──槙島聖護

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■ 第二章  孤独な(でない)読書 ■

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ここまでで、積読リストの効能と作り方について見てきました。あとは、実際に本を読んでいくだけです。

では、なぜ本を読むのでしょうか。

情報濁流時代において、読書することはどのような意味合いを持つのでしょうか。

それについて考えてみましょう。

多様な読書と個人

一口に読書といっても、その内実はさまざまです。並んで本を読んでいる二人がいたとしても、その二人がまったく同じことをしている保証はどこにもありません。片方は、ただ文字を目に入れてページをめくっているだけで、もう片方は、一行一行に対して論理的に誤りがないかを確認している、なんてことは十分ありえます。

なぜそのような違いがあるのかと言えば、第一に脳内の情報処理(知的作用)は目には見えないからです。目には見えないから、他人の模倣をすることは叶わず、また違っているから揃えなければいけないという規範性も働きません。

第二に、現代の読書は基本的に一人でするものであって、個々人の読書の「成果」を持ち寄ったりはしないからです。つまり、読書は基本的な意味で孤独な営為なのです。

もちろん、歴史を振り返ってみれば、識字率という概念すらなかった時代では、本は黙読するものでもなく、ましてや音読するものですらなく、他者が読んだ本の内容を聞くものだったのでしょう。そうした時代では、読書は孤独な営為ではなく、むしろ人とつながる行為だったと言えます。

しかし、識字率が高まり、本を読むことが黙読を意味するようになると、その行為はどんどんと孤独さを帯びてきます。言い換えれば、個人が個人として行う行為になってきたのです。
*このことは、西洋の個人主義の確立と呼応していると思いますが、脱線が過ぎるので割愛します。

読書が孤独な行為であり、それぞれの人が本を読むことで何を得ているのかがわからないので、それを揃えようという意識も働きません。

だから結果的に、読書はひとそれぞれの形を保持しているのです。非常に個人的な営みです。

学校では教えてくれない

そうした個人的な営みについては、あまり学校教育では教えてもらいません。

文章の読解については学習があるでしょうが、それよりも一つ上の階層にある(あるいはより統合的な)「本の読み方」は教えてもらわないのです。それは「日記の書き方」や「タスク管理の仕方」についても言えるでしょう。もっと言えば、「自己形成の方法」も教えてもらいません。

学校で教えられることには限りがあるのですから、それは仕方がないでしょう。

そして、自分のことを振り返ってみると、本の読み方を学校で教えてもらわなくて、本当によかったと思います。

もし、ある一つの読み方を「正解」だとして、それを強要されていたらと考えるとゾッとします。それに比べたら、自分なりの本の読み方を手探りで探していく苦労なんてたいしたものではありません。むしろ、見方を変えれば、それは楽しい冒険や心躍る研究とすら言えます。

これはとても大切なことです。

本の読み方に「正解」はありません。

だからこそ、私たちは本を読むのです。何かを探して。

(つづく)

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