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本で「モノ」を読む
趣味としての読書から一歩踏み込んで、頭をgoodにしていく読書を考えたときに、どんな風に本を読んでいったらいいのかは案外難しい問題です。
内田義彦さんの『読書と社会科学』にはこんな一節があります。
本をよむったって、本を読むだけに終わったんじゃ、つまらないでしょう。ウェーバーについて詳しく知ったって、ウェーバーのように考える考え方、なるほどさすがにウェーバーを長年読んできた人だけあってよく見えるものだなあ、ウェーバー学も悪くないと思わせる見方を身につけなければ仕方がない。
単に知識を習得することではなく、著者のように考える力を得られたらたしかに頭がgoodになっている感覚がありそうです。内田さんはこう続けます。
論語読みの論語知らずといいますね。字面の裏にある「モノ」が読めてなきゃなりません。本をではなくて、本で「モノ」を読む。これが肝心で、つまり、真の狙いは本ではなくモノです。
とても面白いですね。読書するときに、真のターゲットは本ではないというのです。そうではなく、その裏(ないし奥)にある「モノ」が狙いとなる。この点が、要約で読書を済ませることの限界でもあります。
もちろん要約が悪いわけではありません。パパッと文献を見極めるためには要約が大活躍しますし、単に知識を得るだけならばそれだけで十分という場合も多いでしょう。
しかし、本で「モノ」を読むという場合には足りない。それだけでは裏(ないし奥)に手が届かないのです。
ではどうやったらそうした読み方ができるのか。
内田さんは読むという行為を「情報として読む」と「古典として読む」の二つに分けて説明されるのですが、その辺の話はまた次回としましょう。