見出し画像

書けているときに生じていること

備忘録代わりに。

「書けているときは、どういうときか」を自分なりに問うてみる。

たとえば、この記事のように他人の記事やら文章に反応しているときは、実に書けている。こういうときは、本当にまったく「考える」(もう少し言えば考え込む)ことがない。

すでにリアクションというか書く何かが励起していて、そのベクトルに身を寄り添えば文がつるつると出てくる。サーフィンというのが一番近いだろう(やったことはないけれども)。

では、こうしたレスポンス的文章ではなく、書き下ろしの文章ではどうか。どういうときに「書けて」いるか。

執筆の最中は没頭しているので(ゾーンだ)、ほとんど自覚的ではないが、一応そうだろうというイメージで振り返ってみると、書けているときは「聞き手」が脳内にしっかりと存在しているときであると言えそうだ。あるいは、そこにある「聞き手」との呼応が非常にうまく成立しているときとも言える。

リズムの、良い、ダンス。

頭の中に「書くこと」がいっぱいあってもうまく書くことはできない。というか、いっぱいあればあるほど書くことはできなくなる。

一方で、そうした人でも同じテーマについて目の前の人に話そうとするとするする話が出てくることがある。語り口やたとえ話の方向性、内容の粒度や高度さについての選択が、ほとんど無自覚に行われている。

他者による語り口の要請。そこから生まれる切断。

そうした切断がうまく効いているとき、僕たちは(少なくとも僕は)うまく書くことができる。

言い換えれば、内容それ自身を見つめすぎると逆に書けなくなる。語りかけるべき他者を念頭におき、そこで内容が語らせようとするままに語ること。そういう状況が成立していると、するすると文章は書いていける。

もし「執筆の現象学」を検討するならば、そうした要素から形成される一つの「場」を起点に考察を進めていくことになるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?