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本の価値を見出す人を見出す試みは大切だということ

noteで読書の秋向けのコンテストが開催されるようです。

とても良い企画だと思います。なぜなら、本の価値を見出す人を見出すことはこれから重要になっていくからです。

雑誌が売れなくなっている、という話はよく聞きます。聞き覚えのある雑誌でも廃刊・休刊に陥っているニュースも耳にします。

雑誌業界全体がどれくらい危機的かはさておき、販売部数が下がり、それと同時にメディア的な認知力も下がっていることは否定しがたいでしょう。

でもって、書評です。あるいは書評家です。

雑誌などに掲載される書評や本の紹介は、本の存在を紹介するだけでなく、その本のどこが面白いのかを伝える役割を持っています。

なぜその役割が重要なのかと言えば、本は経験財だからです。本の良さは読んでみて初めてわかるものですが、それを買うかどうかは良いかどうかに寄るでしょう。購入動機のパラドックスが起きます。

だからこそ、立ち読みがあり、ランキングがあるわけですが、書評などもそうした購入動機のパラドックスを解きほぐす意義を持っています。

しかも、その意義は多彩です。Aの情報を必要としている人に、それが掲載された本を紹介する、というだけではありません。その本からB的な価値を抽出して、Bの情報を必要としてる人伝えることもありえます。そして、そのバリエーションは本を紹介する人の数だけ存在するのです。

しかしながら、雑誌の低迷です。あるいは存在感の希薄化です。これでは、購入動機のパラドックスを取りほぐすルートが一つ消え去ってしまいます。

そうしてルートが一つ消えれば、既存のルートの重みづけが強まるわけですが、そうなると「ランキング」や「〜〜大賞」まかせとなり、それは狭き門を争う競争を引き起こし、系の多様性は消失します。あまり嬉しくない結果です。

むしろ、書評家はランキングや大賞などで見出されない価値を見出すのが仕事だと言えるでしょう。そういう人たちの仕事によって、本来なら知ることもなく、目次をパラパラとチェックしようとすら思わなかった人に、本の情報が届くわけです。

また、雑誌の低迷と共に、ある種の知的権威がその威力を落ち込ませている状況もあります。偉い人が進めたからといって、皆が飛びつくわけではありません。一方で、テレビ番組で本や漫画が紹介されると、一気に売れ行きが伸びる現象もあります。

「その人の情報なら関心を持つ」と思われる人の位相が移り変わっているのでしょう。ものすごく身近ではないが、かけ離れすぎているわけでもない。そういうポジションの人たちが、カルチャーに(あるいは消費行動に)影響を与えるようになっています。

では、今の出版業界に、そうした「本の新しい価値の担い手」を見出し、育てるような環境はあるでしょうか。雑誌がやばいことになり、原稿料が安くなってくると、やはりなかなか難しいものがあるのではないでしょうか。特定のイデオロギーで商売できる人たちはともかくとして、そうでない書き手は厳しいのが現状でしょう。

だからこそ、冒頭で紹介したようなコンテンツは意義があると感じます。

面白い本を、面白く紹介できる人。
本の価値を、その人なりに見出せる人。

そういう人が増えていくことで、本に興味を持つ人のすそ野は徐々に広がっていくでしょう。逆に言えば、そうした人を増やしていかないと、徐々に読書習慣の規模は先細っていくかもしれません。

そもそも「本」への興味は、(本という)抽象的カテゴリーから生まれるのではなく、まず個別の本が好きになり、そこから広がっていくものです。だからこそ、たとえ一冊の本であっても、その価値を見出し、関心を持ってもらい、興味を広げる活動には意義があります。

誰も何もしなくても、本というものは良いものだから自然に残っていくと考えるのはさすがに甘すぎるでしょう。その価値を見出し、広げる活動にもまた注力していく必要がありそうです。

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