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本を読み、本を作る一年/ゆっくり本を読む/2021年に読み切りたい二冊の本

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/01/04 第534号

○「はじめに」

頑張ったんです。頑張って作業を進め、当初の予定だった2020年12月31日内にKDPの「出版ボタン」を押すという目標を達成したのです。

普段なら、それこそ数時間後にAmazonのKindleコーナーに並んでいるはずが、半日絶っても「出版準備中」に変化がありません。まあ、年末です。仕方がありません。

しかし、一日経ってもあいかわらずそのままです。まあ、元日です。仕方がありません。一月二日も同様でした。まあ、元旦です。仕方がありません。

そして、一月三日の朝も同様でした……。まあ、お休みなのでしょう。仕事がお休みなのはよいことです。

この原稿は一月三日の午前中に書いているので、もしかしたら午後には出版されているのかもしれませんが、なんとなく四日までもつれ込むのではないかとそんな予想を持っています。

〜〜〜アフターショー〜〜〜

ブックカタリスト第二回のアフターショーが公開されました。

本編が終わったあとにその回の振り返りや次回について語ると面白いのでは、というごりゅごさんの発案により、その部分も録音&公開することになりました。

こちらもいろいろ面白い話が出てきておりますので、よろしければどうぞ。

〜〜〜目標の研究〜〜〜

新年と言えば目標、目標と言えば、『「目標」の研究』ですね。

たぶん、今年中に値上げをすると思うので、よければお読みください。

〜〜〜手帳とEvernoteの新年体制〜〜〜

新年が明けてから、少し時間を作って去年使っていた手帳的ノート(あるいはノート的手帳)を最初から読み返しました。300ページ以上ある手帳を、約260ページ使っていました。メモの主軸はデジタルなので、昔に比べると使用ページ数はぐんと減っています。

それでも、一年分のノートを読み返すことには、それなりの手応えがあります。時間の流れ、重みが感じられたのです。特に去年の頭は体調不良まっさかりだったので、いろいろ思うところがありました。そのとき感じていた切実さを、改めて確認できたような部分もあります。

一通り読み終えて、アイデア的に使えそうなものはデジタルに引き上げておきました。具体的にはScrapboxに転記しました。これで、この手帳の「役割」はひとまず終えた格好になります。

今年はまた別のタイプの手帳(より手帳的な手帳)を使っていく予定です。この手帳も来年にまた読み返すのだろうと考えると、これから書いていくのが楽しみになります。

ついでに、今年用にEvernoteも準備をしておきました。新しく作ったアカウントに一年分の「一ヶ月ノート」を(つまり十二枚のノートを)作成しました。その際注意したのは、ノートのサムネイルです。

Evernoteはノートツールではありますが、表示がどうしても「データベース」的になり、個々のノートの認知的な区別が生まれにくいものです。そこで個性(差異)を生むための装置としてサムネイル画像をつけるのですが、画像をつけると、いちいちノートのタイトルを「読まなくてよい」という副次的なメリットもあります。

そして、これが存外に重要なのだと最近気がつきました。ぐっとノートが使いやすくなります。これもデジタルノートならではの工夫だと言えるでしょう。

今年のEvernoteは新しく作ったアカウントを中心に進めていくつもりですし、またアナログの手帳もこれまでよりは活用していくつもりです。

いろいろ新しいことを試しつつも、長らくやってきて「良かったこと」に軸足を戻していくこと。今年はそういう一年になりそうです。

〜〜〜Q〜〜〜

というわけで、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q.今年のテーマは何かありますでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートします。今回は、「倉下の今年のテーマについて」です。

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○「本を読み、本を作る一年」

2021年の倉下のテーマは、

〈本を読み、本を作る一年〉

です。

ちなみに「目標」ではなく「テーマ」なのがポイントなのですが、これについては後述するとして、まずはこのテーマの中身から見ていきましょう。

テーマは、大きく二部で構成されています。「本を読み、」と「本を作る」です。それぞれどんな意図が込められているのかを考えます。

まずは「本を読み、」から。

■「本を読み、」

2019年の年末から2020年の頭にかけて、ひどく体調が悪い日が続いていたのですが、そのときは本当に本が読めませんでした。YouTubeで滝の動画を見たり、頭を一切使わなくてよいポッドキャストを垂れ流すのが精いっぱいだったときすらあります。もちろん、そんな状況では読書を進めることなどできません。

そうした状況に忸怩たる思いを抱いていて、「元気になったらもっと本を読むぞ!」と強い決意をしたのですが、実際に元気になってみたらどうでしょうか。YouTubeをみたりTwitterをみたりYouTubeをみたりTwitterをみたりしています。

もちろん、その時間がつまらないわけではありません。でも、視聴を終えた後に深い満足を得ているかというと、はげしく微妙です。時間当りの満足度を100%としたときに、せいぜい20~30%しか満たされていないような感じがあります。それらのメディアは、疲れずに視聴できる分、満足度もそう高くないのだと推測できます。
*私が見ている動画に偏りがある可能性はあります。

おそらく、心身が弱っていたときの情報摂取の「癖」が今も継続しているのでしょう。ちょっとした空き時間があるときに、ついブラウザを立ち上げてYouTubeにアクセスしたくなるのです。特に「見たい番組」があってアクセスするのではなく、本当にタバコに手が伸びるのと同じような感覚で、「つい」その動作をやっています。

私はYouTubeに時間を使うことを悪だと断じているわけではありません(それはさすがに横暴です)。そうではなく、その「つい」性に疑いを持っているのです。

はたしてYouTubeでの時間使用は、私の「やりたいこと」なのだろうか、と。

■私のやりたいこと

ここで難しい問題が立ち上がります。「私のやりたいこと」はどのように定義されるのか、という問題です。

たとえば、私は誰かに命令されてYouTubeを見ているわけではありません。つまり、強制ではありません。強制でない以上、その行為は「私のやりたいこと」であるはずです。

ここで「すべての行為の価値は等価」という考え方が出てきます。YouTubeを見て時間を過ごすことも、本を読んで時間を過ごすこともどちらも「私のやりたいこと」をやっているのだから、等価ではないか。それを行ったことによって得られる成果は未来の出来事なのだから誰もわからない。だから気にしても仕方がない。こういう考え方です。

でも、本当にそうでしょうか。たとえば私が20歳の若人だとして、10年間をYouTubeを「つい」見ながら時間を過ごすのと、じっくり本を読みながら過ごすことが、本当に「等価」と言えるでしょうか。三十歳からのあるいは四十歳からの人生において同じ影響を持つと言えるでしょうか。

ほとんど人生が終わりかけ、あるいは「後は逃げるだけ」の人にとっては、そうした十年の蓄積の差などほとんどないと同じでしょうが、積み重ねた先に何かを為したいと考えている人間にとってはとても等価だとは思えません。でもって、私も(若人ではないものの)蓄積の先に何かを求めている人間です。

もちろん、もう一度書きますが、YouTubeを見て時間を過ごすことが悪だとか人生を無駄にしているとか言いたいわけではありません。そのような見方に立つと、教養主義はすぐさま選民主義となり、人を見下す態度を生み出します。どんな行動をしていようが、人間の価値はすでにそこにある、という前提からスタートしたいものです。

その意味で、私が採用したいのは「すべての行為の価値は等価」ではなく「すべての人間の価値は等価」です。そして、それぞれの人の中で、行為の価値が決まってくる、という考え方のほうが現実的だと感じます。

■行為と存在

話が少し脱線してきたので、さらに脱線を拡大しましょう。

「すべての行為の価値は等価」という考え方が支援したいのは、おそらく「すべての人間の価値は等価」なのでしょう。

私という存在には価値がある。それはAという行為をしていようとも、Bという行為をしていようとも変わらない。そんなメッセージです。

しかし逆に言えば、「すべての人間の価値は等価」を肯定できるなら、「すべての行為の価値は等価」を持ち出す必要はありません。行為に価値づけを行っても構わないのです。

ではなぜ、わざわざ行為の価値を担保することで人間の価値を確保しようとするのかと言えば、行為と存在が強く癒着しているからでしょう。存在の価値が行為によって決定するという価値観を採用する限り、行為を通してしか存在の価値は確認できません。つまり、価値ある行為をするから、その存在は価値がある、という等式が成り立ってしまうのです。

これがどのくらい危険なのかは、説明するまでもないでしょう。ある価値基準から見て「役に立たない」人間はたくさんいるものですし、しかもその価値基準の選定が恣意的であれば、いくらでもジェノサイドは起こりえます。これは危ない思想です。

その政治的思想を、個人的思想に相似させても同じです。自分という人間(存在)は、何か価値ある行為をしているから価値があるんだ、と考えてしまえば、その「価値ある行為」ができなくなったときに存在も同時に無価値化してしまいます。危うい棄損が起こりうるのです。

それを抑制するために「すべての行為は等価」として、審級に混乱を迫ることには一定の有用性はあるでしょう。しかし、それは同時に「進歩」的な考え方もまた同時に抑制してしまいかねない点には注意が必要です。

■量子的な考え方

「すべての人間の価値は等価」であることを受け入れつつも、自分の行為に価値の優劣をつけること。これは、詭弁のように(あるいはダブルスタンダードのように)感じられるかもしれません。でも、そうではないのです。それは、光が粒子のように振る舞ったり、波のように振る舞ったりすることを詭弁やダブルスタンダードだと批難しないのと同じです。単に局面によって、見え方が異なるだけなのです。

これは、最近私がデジタルツールについて考えている「Aでもあり、Bでもある」という両義性とも関係しているでしょう。つまり、進歩的な考え方か、人間平等的な考え方か、という二項対立に立つのではなく、またそれぞれを却下するのでもなく、二つの項目を共に保持しながら、局面によってその「見え方」を変えていくこと。それが私が考えていることです。

戦後の啓蒙主義・教養主義によって、個人の努力や勉強が評価される時代があり、その後行きすぎたことによる反動が生まれ、ミニマリズム的なあるいは禅的な考え方が広がってきましたが、私はその両方を採用したいのです。なにせそれぞれには理があります。間違ったことを言ってるわけではありません。ただし前者の採用によって選民主義に陥らず、後者の採用によって停滞に陥らないようにするのがポイントです。

私たち一人ひとりは、どんな行為を為そうとも存在として等しく価値がある。しかし、一人の個人の中で、「Aを為すこと」と「Bを為すこと」には、恣意的な(あるいは主観的な)価値の序列がある。とは言え、後者の価値は前者の価値を証明するためのものではない。こういうロジック(?)なのです。

私はこのような多義的な(量子的な)考え方こそが、これからの時代に求められているものだと感じますが、さすがにそろそろ脱線がひどいので、本線に戻りましょう。

■「やりたいこと」の序列

ようは、私の中で「つい」YouTubeを見て時間を浪費してしまうのと、意識的に本を読んでいくことには──どちらも同じ「やりたいこと」だとしても──序列があるのです。もちろん、序列が高いのは後者です。

そう考えたときに、2019年の後半から2020年は十分に本を読めたとは言えない一年でした。もちろん、序盤は体力的な無理があったので仕方がない面はありますが、それを惰性で引きずっているのは、悟性ある人間のやり方ではありません。そろそろ変えるときです。

というわけで、 2020年のテーマの前半は「本を読み、」となったわけです。

とは言え、「年間108冊読もう」といった目標は掲げません。そういう冊数ベースの管理は、読書初心者のためのわかりやすい指標であり、さすがにもうこの年でそんなことをやっても虚しいだけです。

また、単に本を読むことを「こなせば」いいわけでもないのは、このテーマが後半も有していることからもわかります。つまり「本を作る」と接続していないとテーマに沿ったことにはなりません。前半と後半は独立しているわけではなく(それなら箇条書きになるでしょう)、あくまで一つの文を為しているのです。

よって、本を読むことは、本を書くことと調和的なものである必要があります。次から次へと本を読んでいったけども、ぜんぜん頭に残っていなかったというのではテーマは未達となるわけです。

では、どんな風に本を読むのでしょうか。

一つには、「ゆっくり読書する」ことがあります。私はかなり読むのが早い自覚がありますが(当家比)、別にその速度を遅くしようというわけではありません。一冊本にかける総合的な時間を増やす、ということです。

長くなってきたので、その話は下で続けましょう。

(下に続く)

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