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学ぶ意欲はきっとあるはずで

日本国民すべてに浸透しているかは別にして、学ぶ意欲を持っている人は少なくないように思う。少なくとも、100人とか1000人のオーダーではないだろう。

だからこそ、雑誌や漫画以外を求めて本屋さんにいく人たちがいるわけだ。いわゆる教養新書を買い支えている人たちも、そこに加えてよいだろう。

一方で、「勉強法」というカテゴリで書籍を探すと、目につくのはたいてい受験勉強である。つまり、何かしらの試験を突破するための学習のためのノウハウだ。

別段それ自体が問題なわけではない。特定の職業に就くために必ず突破しなければならない試験はあるし、そうでなくても資格を持っていることは何かしらの証明になる。

しかし、そこで含意される「勉強」は、広義の勉強の一部でしかない。もっと言えば、誰かによって問いと答えが定められた領域でしかない。もちろん、勉強の領域はそれよりもずっと広いわけだから、試験勉強法だけでは十分でないことは間違いないだろう。

そういう意味で、試験勉強とは違った形での学ぶ意欲を持っている人向けの、勉強法はこれまであまり語られてこなかったのではないか。あるいは、語られていたとしても、ごく地味な形でしかなかったのではないか。

ひとつには、それを伝えることの難しさがあるだろう。取り組む問いは人によって、大きく異なるし、当然勉強法(学び方と言い換えても良い)も人それぞれで違ってくる。汎用性を謳うのは難しい。

でもって、汎用性を謳わないものは、目立たないのが画一的社会の宿命である。

あるいは、教える方も、「どうせ人それぞれ違うんだから、自分で考えろよ」と見放した態度があったのかもしれない。もちろん、それは真理であるのだが、その態度がコンテンツの空白地帯を作ってしまったところはあるだろう。

たとえ不完全であろうとも、不十分であろうとも(その自覚があろうとも)、誰かがその空白地帯を埋めない限り、人が持つ学ぶ意欲は試験勉強法に吸い込まれていってしまう。

もし何もなければ、人はただ迷うだけだろう。しかし、現代で「何もない」ということはない。何かがある。誰かのコンテンツがある。だから、迷うのではなく、そちらに向かうことになる。

だからこそ、誰かが旗を立てなければならなかった。不完全さという咎を承知の上で。

* * *

そんなことを分厚い『独学大全』を眺めながら考えた。

研究的な、探究的な、思索的な。

試験に合格するためではなく、ただそれ自身が目的であるような「学ぶ」という行為。あたかも、人生と相似であるような。

そういう行為を欲する人たちはいて、またそのためのノウハウと(おそらくは違う道を歩く巡礼者たちという)同胞の情報もまた求められていたのではないか。

本来そのような情報は、大学によって得られるものではあっただろう。しかし、(私を含めた)多くの人にとってキャンパスライフとは、そのようなものではなく、もっとモラトリアムで、さらに言えば放蕩の免罪符と言えるような時間であったのではないか。

しかし、一度社会に出て、さまざまな事柄・事象と出会うことで、「あのときもっと勉強しておけばよかった」と後悔することになる。より広く世界を知り、より深く世界を理解していれば、もっと違う生き方ができたのではないかと嘆くことになる。

独学者たちは口を揃えて言うだろう。「今からでも、学び始めればいい」と。

そうだなのだ。学ぶことを深々と切望したときこそが真の学びどきである。

門が開けば人は流れ込み、砂が乾けば水は吸い込まれていく。

だからこそ、学生でもない人たちが今でも本屋に通い、学ぶための書籍に手を伸ばすのだ。そして、かつて学べなかった「学び方」を切実に求めるのだ。

もちろん、非学生であることによる不都合はたくさんある。特に時間と場所の確保は困難を極めるだろう。しかし、生き方に関する裁量を有しているのも、非学生であることの特徴である。さらに、使える道具・資金・人脈も大きく変化しているかもしれない。どれも自分の「学ぶ」を構成する大切な要素である。

あとはそれを、どう配置していくか。つまり、戦略的思考の出番である。

少なくとも、イヤな(あるいは合わない)カリキュラムに従う必要は一切ない。自分の裁量と責任において、自由にデザインしていけばいい。それが、非学生であることの一番のメリットであろう。

* * *

なんとなく、「学ぶ」は動詞の方がしっくり来る。その行為自身が静的ではなく、動的なものだからだろう。

あくまで言葉尻の問題だが、「学びがありました」と言うとき、それは静止的であり、スナップショットであり、変化が抑制されてしまっているイメージがある。

「学ぶ」は、つながり、つらなり、ひろがり、ながれ、こわし、またつくられ、さらにながれていく、そんなイメージがある。

そういうプロセスに自らの身をさらすとき(投企するとき)、私自身もまたそのプロセスへと変質していくことになる。

知識はクイズに答えるためだけにあるのではない。

ほとんど間違いなく、それは「生きる」ことと関係している。だからこそ、「いかにそれを得るのか」は、簡単に扱ってはいけない問題であると思う。

さて、2020年に生きる私たちの学ぶ意欲に応えてくれる存在は一体どこにいるのだろうか。きっと、さまざまな場所に見出せることだろう。それはとても幸福なことであるように思う。


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