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笑顔という仮面

とても辛いことがあったとき、あなたはどんな表情を浮かべるだろうか。辛さをそのまま表情に浮かべるか、それともなんとかして笑顔を浮かべるか。

道徳的にどちらが正しいのかは判断できないが、それでも一つ違いがある。それは、笑顔という仮面をつけている人は、他人の表情を見る目が変わる、ということだ。

辛いときに、それでもあえて笑顔を浮かべる人は、他人の笑顔を見たときにその裏にあるものを想像してしまう。表情が内面をそのまま表しているのではないかもしれない、と考えてしまう。

そうした仮面を持たない人は、他人の表情をそのまま受け取るだろう。苦しければ苦しい顔を浮かべるだろうし、辛ければ辛い顔を浮かべるだろう。逆に言えば、そうした表情をしていないのならば、その人たちはそうした心境になっていないと結論する。非常に単純な心の理論だけがそこにはある。

別に自分の苦労を隠すのが美徳だという話をしたいわけではない。そうではなく、「他人の内面が手に取るように分かる」という実感──それはとても強い実感だ──を疑う心を持っていることについて注意を向けているにすぎない。

飄々とした態度をとっている人が、何も感じてないわけではない。私は何の苦労もしていないと言いたげに能天気に振る舞っている人が、内面に強い苦悩を抱えていることだってある。逆に、深刻そうな顔をしている人が、ただ退屈しているだけのことだってある。

その内実は結局のところわからない。推し量るしかない。

「わからないこと」はとても怖いことで、それは人が闇を恐れるのに似ているかもしれない。だから、私たちはすぐに「わかった」に飛びつこうとしてしまう。蛾の群れが篝火に吸い込まれていくかのように。

自らの立ち振る舞いを直情的なものから少し切り離せば、自分の想像力も少しだけ間接的なものに思いをはせられるようになる。それくらいの拡張性は、人間の認知だって持っているのだ。

もう一度言うが、自分の苦労を隠しなさいという道徳的提言をしているわけではない。人はやむにやまれる状況の中で、自分の気持ちを素直に表情に出せないことがあるのだ。あるいは、出さないでおこうと決意することがある。

そうした決意の先にあるのは、「ちょっと見知っただけの他の人のことなんて、ぜんぜんわからないんだ」という理解であり、それでもその人を知りたいと欲するならば少しでも手を伸ばすしかないという態度の確立である。

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