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第六回:閉じつつも閉じすぎない読書について

本の読み方には、さまざまな形態・様式がありえます。

とは言え、現代的な読書はひとりで黙読するのが一般的でしょう。オンリーでロンリーな読書です。

この黙読スタイルは、多少訓練が必要なものの、体得すれば素晴らしい環境が手に入ります。まるで、精神と時の部屋のような時空間です。

その場所には、私たちを煩らわせるものがありません。厄介事はすべて外世界に追いやられ、意識はただ目の前の文字を追うことだけに向けられ、やがては文字を読んでいることすら意識から消えていきます。

言葉の流れ。意味の流れ。意識の流れ。ただそれに身を任せばいいのです。

まるで、見事に調整されたデイリータスクリストに従って、淡々と上から順番に作業をこなしているかのように、私たちは、ただ目の前のこと(本の中のこと)だけに集中できます。

閉じた世界です。

前提としてあるつながり

しかし、その世界は閉じ切ってはいません。なぜなら、読み手がいるとき、必ずそこに書き手がいるからです。あるいは、書き手がいるからこそ、私たちは読み手になれる、と言い換えてもいいでしょう。

どこまでオンリーでロンリーな読書を追求しても、本当の意味で孤絶することはできません。本を読むことは、その本を書いた著者とのつながりを結ぶことだからです。

その意味で、黙読による読書は、閉じつつも閉じ切ってはいない読書だと言えます。ひとりで行うが、しかし決して断絶的ではない行為なのです。そこには、何かしらのつながりがあります。目に見えるものではなく、感じられるつながりが。

脱線と想像力の翼

それだけではありません。

書き手の存在を横に置いたとしても、やはり読書は閉じ切ってはいないものです。

本の読み手が一文一文、文章を追いかけたとしても、そのままずっとリニアに続いていくわけではありません。人によっては行きつつ戻りつして読む人もいるでしょうが、それ以上に書いてあることから連想が広がるものです。

物語で言えば描写されない詳細や信条について、論説文なら意見に対する反論や共感として、エッセイなら自分の過去の思い出などが脳内をよぎるのです。読者は本の中にがっちり閉じこめられているわけではなく、そこから想像の翼を広げることができます。

閉じていても、閉じ切っていないのです。

情動的でない心の動き

そうして広がる想像の翼は、以下のようなものとは違っています。

つまり、「本日だけ限定セール」「先着100名様限定」「1万円キャッシュバック」「危ない○○」「絶対にやっていはいけない」といった表現で動かされる情動ではないのです。

そうした情動は、刺激に対する反応のようなもので、動物的・刹那的・非人格的なものだと言えます。多くの煩わしさのもとになるのもそのような情動反応たちです。

黙読において広がる空想は、そうした反応ではありません。情報と自分との適度な距離感が空いています。その距離感の中で、想像の翼を広げられるのです。

檻の中をめぐり歩く

人間は、おそらく真に自由な存在ではないでしょう。その在り方は、(人間が想像するよりも)はるかに限定的です。少なくとも、自由意志と呼ばれているものが、環境の影響を強く受けることは、行動経済学や認知心理学の実験から報告されていることを考慮すれば、あまり自分というものを広く(ないしは大きく)捉えるのは避けたほうがよいでしょう。

一方で、人間がある種の檻の中に閉じこめられているのだとしても、わざわざその檻を狭くしていく必要はないでしょう。たとえ、檻の中にいるのだとしても、その檻の中を「自由に」動き回っていきたいものです。

「どうせ檻の中にいるんだから、その中をうろついても仕方がない。座っていたら楽じゃないか」という考え方も一つの価値観でしょうが、私は狭いながらにも、まだ知らないものがあると信じてうろつきたいと願います。

そうすることで、私たちは、世界=檻=自分を知ることができるからです。

(つづく)

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