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Scrapbox知的生産術02 / 素直に読むこと、疑って読むこと / Logseqの編入

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/05/09 第604号

「はじめに」

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百三回:Tak.さんと最近のツールまわりについて 作成者:うちあわせCast

ここで話したLogseqの使い方については、本号の原稿で紹介しておりますので、そちらも合わせてご覧ください。

〜〜〜輝かなくても〜〜〜

書店で、「毎日がもっと輝くhogehoge術」のようなタイトルの本を見かけると、高い確率で「いや別に輝かなくてもいいんだけど……」という気持ちになります。陰キャなわけです。

個人的には、輝いていなくても、それなりに充実感を持って一日を過ごせればそれはすごい達成だと思いますし、そのためのノウハウを教えてくれる本ならちょっと手に取ってみようという気持ちも高まりそうです。

以前も、『普通の人になるための10の方法』という架空の企画案を思いついたのですが、メディアを騒がせているのは、これとはまったく逆の方向性です。言い換えれば、「普通の人」の方法があまりに軽視されている風潮があります。

しかしながら、ベル型カーブを思い描いてみると、私たちの大半は中央の盛り上がった部分に属するわけで、そういう人たちがカーブの端っこの方法を追い求めても苦しくなるばかりではないか、なんて考えます。

「普通の人には、普通の人のための方法」

それがよいのではないでしょうか。

ただし、そういう本に書かれていることは、おそらくすごく「当たり前」のことなので、販売数はきっと伸びないでしょうけれども。

〜〜〜何をするにも鍛練は必要〜〜〜

上の話と合致するのか、矛盾するのかはわかりませんが、何かしらの成果を上げたければ、そのための鍛練は必要となります。

言い換えれば、「さあやろう」と思っただけで、それが達成できる見込みは──ベル型カーブの端っこの人以外は──皆無に近いでしょう。

私たちの日常生活は繰り返し(習慣)でできていて、人間は繰り返す行為は熟達し、いとも容易く達成できるようになるので、「行為」というのがあまりに簡単にできるように勘違いしがちですが、実際のところ何かを「行う」のはきわめて難しいことなのです。

ロボットを人間のように歩かせるのはすごく難しい、という話をよく聞きますが、それと同様の難しさが「行為」には潜んでいます。慣れていない行為は、常にそういう難しさを越えてやっと実行に移せるものなのです。

ですので、「ありのままに生きたい」と「成果を上げたい」という思いは見事に衝突します。今の自分にはできないことを為せるようになるためには、「ありのまま」を変えていかなければならないからです。

でもって、身の回りの人がごく当然のように何かしらの行為をしていても、それは生得的なものではなく、「ありのまま」を変えるような鍛練を積んできたのだ、と理解しておくのがよいでしょう。

もし、そうした鍛練の不足を「自分の個性だ」と言うようになったら、技術の向上は望めなくなってしまいます。

〜〜〜読了本〜〜〜

以下の本を読了しました。

『モチべーションの心理学-「やる気」と「意欲」のメカニズム (中公新書 2680)』(鹿毛雅治)

タイトル通りの内容で、「モチベーション」(動機づけ)に関する心理学のさまざまな理論が包括的にまとめられています。少し分厚いですが、広範囲の情報がまとまっているので、むしろよくこのボリュームでまとめたな、と関心するくらいです。

ライフハック界隈でも、「モチベーション」に関する心理学の知見がたびたび紹介されますが、本書を読めばそういう話は全体の中のごく一部の理論でしかないことがよくわかります。自分にとって都合のよい「理論」を引っ張ってきているだけなのです。

一歩引いて、大局的な視点から「モチベーション」について考える上で本書は非常に有用な一冊になるでしょう。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 自分が強く動機づけられているな、と感じるのはどんなときですか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、Scrapbox知的生産術(仮)の第二回と、二つのエッセイをお送りします。

「Scrapbox知的生産術02」

■「Evernoteは情報カード」という発見

Evernoteを「知的生産」の道具として捉えるようになったのは、梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読んでからである。

この本では、B6サイズの厚手のカード(情報カードと呼ばれる)を使った情報管理システムが紹介されていて、いかにもそのシステムが魅力的であるように感じられた。「自分でもやってみたい」そんな風に思ったのである。

しかし、実物のカードを使うことには抵抗があった。

一つには、『知的生産の技術』を読むまでに読んできた本の多くが「カードを試してみたが、うまくいかなかった」と報告していたこと。第二に、私の作業机はそう広くないし、それでなくても蔵書がその占領区域を増やしているので、物理的に置く場所が確保できそうになかった点。100枚程度であれば机上にボックスを置いて並べることはできるだろうが、これからの人生において作るカードが100枚で済むとは到底思えない。よってアナログのカードではない、デジタルのツールにおいてそれを実現することを考えた。少なくとも、パソコンがあるんだからいけるだろう、という直感があったのだ。

私の頭の片隅にはそうした直感があり、別の片隅には「謎のEvernote」というツールがあった。その二つが急激な電流と共に結びついたのである。

"Evernoteというツールは、カードを使って構築される情報システムをデジタル上で実現するためのツールである"

まさに「エウレカ!」という気分だった(もちろん、交響詩篇は関係ない)。

■カード法の骨子を探る

では、どうすればEvernoteで「デジタルカードシステム」が作れるだろうか。Evernoteは「カード」を作るためにデザインされているわけではないので、単純に移し替えることはできない。梅棹が提示する「カード法」の骨子を理解して、それを応用することが必要になる。

では、カード法の骨子とは何だろうか。

まずカード法では、(当たり前だが)カードを使う。先ほど書いたようにB6というやや大きめのカードであり、しかも厚みのあるしっかりとしたカードを用いる。そのカードには罫線が入っていて、文章が書きやすくなっている。本文の上にはタイトルを書くスペースもある。基本的にはそれだけだ。

梅棹はこのカード一種類ですべてをまかなうと述べている。違うサイズのカードも使わないし、色違いのカードも使わない。管理するすべての情報をこのカードに書くと言う。なぜだろうか。

根底にあるのは、同じカードを用いることで情報を「規格化」するという思想である。サイズや形がバラバラだと、統一的に扱いにくい。それは情報の散逸と混乱を生んでしまう。とても望ましい状態とは言えない。

だからこそ、すべての情報を同じカードに書くわけだ。そうすれば、たとえ書かれている情報たちが異なっていても「同じ手つき」で扱えるようになる。

これがカード法の起点になる。

■情報の規格化

また、カードは「一枚一事原則」で書かれる。どんな情報も、一つのカードに二事以上詰め込むことはしない。たとえば、思いついた着想一つは、一つのカードに書かれる。記述が長くなったら二枚以上のカードに書くのは構わないが、一枚のカードに複数の要素を記述してはいけない。

これも「規格化」(単位を揃えること)に貢献している。カード一枚が一事に統一されていることによって、操作性が抜群に上がるのだ。

おもしろいことに、上記のような規格化の発想は、物流業界における「コンテナ」の重要性とぴたり一致する。『コンテナ物語』で紹介されている事例が非常にキャッチーなのだが、均一化された「コンテナ」という大きな箱を作ることで、物流業界は大きく変化した。具体的には効率化し、安定化し、高速化した。その変化が、次に生産業や販売業にも大きな影響を与えた。コストや速度が変わったことで、生産販売圏の構造をも変えてしまったのだ。

物の流通における規格化がそれほど大きな力を持つのならば、情報の流通における規格化もまた同種の力が期待できるだろう。梅棹のカード法は、まさにそれと同じことをやっているのである。

■分類せずに並べる

さて、一枚一事で書き留められたカードは、「分類せずに並べる」ことが強く推奨されている。この点に関しては、梅棹は念入りに強調している。おそらく、カードを使い始めるとついつい「分類」してしまう人が多いからだろう。

その点は、川喜田二郎が『発想法』で指摘していた「先に分類してしまう人が必ず出てくる」と呼応するだろう。分類すると、スッキリする(あるいは安心する)ので、ついつい先にそれをやってしまうわけだ。

しかし、先に分類をするならば、カードのように「小分け」で情報を保存する意味はないと梅棹は言う。むしろ、後からいくらでも順番を自由に変更できることにカード法の神髄がある。それを忘れないようにするための「分類するな」なのである。

とは言え、いくら分類しないからといって、部屋のあちらこちらに散らばらせておくわけではない。そうではなく、一つの箱に並べておくのだ。これを梅棹は別の本で「分類せずに、配列せよ」と述べている。

固定した順番に並べるのではなく、一つの箱に集めておいて、自由自在に「順番」を並び替えていくこと。そこから新しい発想・着想を生み出していくこと。それがカードを使う目的であり、カード法の胆である。

カードの規格化が要請されるのも、そうした操作のしさすさが関係している。カードがバラバラで粒度も揃っていないと、そうした操作はひどく難しくなる。それでは新しい発想を生み出すことはできない。

だからこそ、規格化されたカードに一枚一事で書き留め、それを一つの箱に並べていくのである。

これこそがカード法の骨子であろう。

■Evernoteに当てはめる

そうしてカード法の骨子を確認すると、いかにEvernoteがそれに適しているのかがわかる。

まず、Evernoteは「ノート」という共通の情報単位を持つ。どのような情報を保存しようとも、それは「ノート」としてまとめられる。メモは「メモ」として、リストは「リスト」として、Webクリップは「Webクリップ」として別々の属性を与えられることはない。それらはすべて「ノート」として保存される。

これは、自分が扱う情報を「規格化」していると言える。すべてを「ノート」というメディアに放り込んでいるわけだ。

しかも、それらのノートはノートリストに一列に並ぶ。視覚的にすべて「同じ」ように見える。これはすごいことだ。一行だけの書き込みでも、20行の文章でもすべて同じように「見える」のだ。これ以上の規格化はそうないだろう。

また、アナログのカードと違って文字数の制限がない。アナログカードの場合、記述が増えるとカードが数枚に分かれてしまうことが起こったが、Evernoteではどのくらい情報量が増えても、すべて「ノート」という単位にまとめられる。

おまけとして、厚手の情報カードは少しだけ値が張るのだが、Evernoteでノートを一つ増やすコストはほとんど考えなくてよい。つまり、気楽に記録を増やしていくことができる。

良い事ばかりではないか。これだけを見れば、Evernoteはアナログカードの上位互換とすら言えそうだ。

もう一つ、Evernoteは「箱一つ」である。ノートブックといってノートを分けて保存する機能があるが、それは箱に差し込まれる仕切り板のようなものである。「すべてのノート」というビューを選択したら、言葉通りEvernoteに保存されているノートすべてが一列に並ぶ。

ここでもデジタルツールのメリットが活きてくる。Evernoteのノート数の上限は10万(*原稿執筆時点)だが、アナログのカードを10万枚一つの箱に収めるのはかなり難しいだろう。可能だとしてもコストがかかりすぎる。一般市民の知的生活に期待できるものではない。

一方で、Evernoteであれば、それは「標準」の機能である。10万枚のデジタルカードを並べられる「箱」。なんと素晴らしいではないか。

その箱には、自分の着想だけでなく、Webクリップや、必要な資料、論文のPDF、名詞や住所録、そして日記など、保存できる情報ならありとあらゆるものを入れておける。

これこそ、期待されていたツール、すなわちメメックスの実現であろう。そんな風に考えていた時期もかつてはあった。

(つづく)

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