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ぱりっとした一日

ぱりっと、リーガルパッドのページをめくる。そこから新しい一日が始まる。真っ白な──リーガルパッドは黄色だが──一日が始まる。

何にも満たされていない時空間。それが今日という一日だ。あなたはこれからその一日を始めることができる。「どんな風にデザインする?」とそのリーガルパッドは尋ねる。「そうだな」と僕は答える。その対話によって、一日のリストができあがる。

もちろん、今日という一日は独立した存在ではない。昨日を引き継ぎ、明日につらなっている。過去のさまざまな出来事が今日という一日に影響を与え、今日という一日が未来の一日に影響を与える。約束や習慣は、過去からの引き継ぎであり、今日という一日の行動は、同様に明日に影響を与える。昨日足を折ったら、今朝起きても足は折れたままだろう。そして、明日も引き続きそうかもしれない。しかし、やがてはくっつく。そんな風にして毎日は続いていく。

しかし、意識の視野は狭い。意識はこの瞬間とその周辺を収めるばかりだ。彼にはいろいろなものが見えていない。そして、意識に見てないということは(意識にとって)存在しないに等しい。

逆に意識は、そこにないものを見たりもする。カギ括弧つきの「未来」や「過去」といったものだ。それらもやっぱり僕たちに影響を与える。しかも、たいていは良くない影響だ。心配や不安といったものは、そうしたものが生み出す。いや、それは正確な表現ではないのだろう。まず心配や不安というものがあり、それを「正当化」するために「未来」や「過去」が引っ張り出されるというのが実態に近しいのではないだろうか。どちらにせよ、それはややこしい袋小路へと僕らを誘ってしまう。

だからこそ、僕たちはリストを使う。リストによって可視化できるものを増やす。あるいは見えるものを限定する。リスト作りは、列挙であると共に、有限化でもある。

これを端的に「整理」と呼んでもいいだろう。しかし、なんと便利な言葉であろうか。秩序を付与しようとするあらゆる行為を包括できてしまう。書類整理・情報整理・人員整理。良いイメージもあれば、悪いイメージもある。そして、一日のリストを作ることも、結局は両方の側面がある。

あなたはすばらしい一日を期待してリストを作り始めることができる。真っ白なキャンバスはそれを受け入れてくる。しかし、そこには期待はずれのものがどんどん混ざり込むし(期待が高すぎるのだ)、過去からの束縛や、未来への準備のために使われる時間も混ざってくる。そういったもろもろを考慮した上で(あるいは直感的に)「やりたいけど、今日はできないな」と諦めざるを得ないことも出てくる。それはやっぱり残念ではあろう。しかし、そうやって荷物を減らすから、歩き出すことができる。

だから、リストは楽しく、また残念なものである。他人のように期待し過ぎてもいけないが、かといって絶望に取り囲まれる必要もない。リストを作らなければ、もっと言えばリスト作りという行為において価値の吟味が発生していなければ、為せなかったことが為せることはある。それは十全ではないかもしれない。5%くらいかもしれない。でも、それは違いではあるだろう。make a difference。

実に僕たちにふさわしい一歩ではないだろうか。

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